ぴぴりのイチ推し!

2025/06/26
文学部でやっているのは、「生きるとは何か」を色々な方法で考えてみることだ、と楯岡求美先生は話します。
「100万回生きる」ことができない人間は、一つの眼差しで1回きりの人生を生きるしかありません。
そんな私たちに、他の人の眼差しや人生を体験させてくれるのが文学です。
しかし、文学は、日本語で書かれている作品であっても日本語話者だからといってすべてを理解できるわけではありません。
そして作家自身も、どれだけ書いても説明しきれないこと、言葉の奥にあるものを説明しようとしています。トルストイやドストエフスキーがべらぼうに長いものを書くのは、書いても書いても答えが見つからないからこそ、読者に一緒に考えてみないか、と誘っているのです。
今回ご紹介するのは、2019年度開講 オープンキャンパス文学部模擬講義から、「物語の形:聞こえるものと見えるもの」。
東ヨーロッパ・旧ソ連圏の文化を研究する楯岡先生と、文学研究の世界を覗いてみませんか?
表現することの原点
まずは、改めて表現するということの原点を考えてみましょう。
UTokyo Online Education 【文学部】物語の形:聞こえるものと見えるもの 2019, 楯岡 求美
ここに有名なマグリットの絵画があります。
これは何を描いたものでしょうか?
一見して、パイプだ、と思われるかもしれません。
ただし、下にある文章を翻訳すると「これはパイプではない」と書いてあります。
この絵画の題名は『イメージの裏切り』。
パッと見たときには誰しもがパイプだと思いますが、この絵を渡されても実際に煙草をふかすことはできません。つまり、その意味でこれはパイプではなく、ただの絵でしかないと言えます。
UTokyo Online Education 【文学部】物語の形:聞こえるものと見えるもの 2019, 楯岡 求美
こちらは、ロシアの画家マレーヴィチの『黒い正方形』。キャンバスに白地を塗り、黒い正方形を描いたものです。
この作品が示すのは、「絵画」においてすべてをそぎ取ったあとに残るものは、色とそれを塗る平面図だけである、ということ。テーマや題名がなくても絵は成立するのです。
そして、色の中でも白と黒は究極の色です。
小学生のとき、図工の授業で筆を洗う水がどんどんどす黒くなっていった経験はありませんか?あのように、あらゆる色をすべて混ぜると黒になります。
一方で、どんな色も混ざっていないのが白です。
つまり、この世の中に存在するすべての色は、白と黒のグラデーションの間に入ります。そうすると、この『黒い正方形』は最もゼロに近い形の絵であり、すべての絵画を表していると捉えることができます。
文学研究の面白いところは、このようなゼロに近い、ゼロの状態からでも物語を読み取るところです。
テクスト(文学)は所詮、紙の上のインクの染みでしかない
では文学とは何でしょうか?
そもそも、テクストというのは、所詮、紙の上に落ちているインクにしかすぎません。それを「文字」であると認識するのは人間の勝手なのです。
UTokyo Online Education 【文学部】物語の形:聞こえるものと見えるもの 2019, 楯岡 求美
上の画像を見てください。初めて見るにも関わらず、多くの人がこれを「文字」であると認識します。(これはアルメニア文字です。)
このように私たちには、意味がわからなくとも文字だと認識する癖があります。そして同時に、意味を読み取ろうとする癖も持っています。
UTokyo Online Education 【文学部】物語の形:聞こえるものと見えるもの 2019, 楯岡 求美
一昔前に流行したロールシャッハ検査というものがあります。
これは紙の中央にインクを落とし、二つ折りにして押し広げてできた模様が、何に見えるかを答えさせる心理検査です。
皆さんは、上の画像を見たとき「人が向き合っている」絵だと感じませんでしたか?
このように私たちは、あらゆるものに意味、物語を読み取ろうとします。
記号としてのことば・文化
記号とは、ことばに代表されるように、意味を表すもの。映像や画像、色やにおい、私たちが相手の感情を読み取る体の動きや表情も記号です。
私たちの生活を構成するあらゆるものが記号体系、一つのまとまりになっていると考えられます。
ここで重要なのは、これらの記号体系には固有性・社会性があるということです。
例えば、11時30分に講義を開始しますと言われれば、私たちは皆11時30分という特定の決まった時間が存在しているかのように思いますが、そうではありません。一般的、普遍的なものと考えられがちな時間や空間もあくまで社会的に決められているにすぎないのです。
色についても、区分は地域によって様々です。虹の色を5色と捉えている国もあれば7色と捉えている国もあります。また、氷に囲まれた北極圏では私たちが「白」と一言で表す色にも何種類もの言葉が使われていたりします。
このように、同じ記号に違う意味がつけられていたり、逆に記号がもつ元々の意味に私たちの感覚が支配されてしまうこともあります。
UTokyo Online Education 【文学部】物語の形:聞こえるものと見えるもの 2019, 楯岡 求美
マルセル・デュシャンの『泉』という作品をご存知でしょうか?写真からわかる通り、男性用便器をギャラリーに展示し大スキャンダルを起こした作品で、現代アートの走りとも言われています。
この作品は陶器でできており、未使用とされています。落ち着いて考えてみれば、お茶碗と同じ清潔な陶器です。しかし、この作品にスープを入れてはいどうぞ、と差し出されても私たちはそれを飲みたいとは思いません。
それは、私たちの頭の中で便器というものに実体験に基づく意味がついてしまっているからです。
これは少し極端な例ですが、「枯れ葉」という言葉についても同様です。「枯れ葉」は、ただ単に葉が季節に応じて変化した、植物の一形態にすぎません。しかし、日本ではこの「枯れ葉」という言葉に「秋」「悲しい、淋しい」「人生の終わり」というような、言葉そのものは持っていないはずの意味を持つこともあります。
意味の読み取り方は人それぞれですが、同時に社会的なものでもあります。文学研究は、ある種、意味に戻っていく活動だと言えます。その言葉はそもそもどんな意味だったのか?なぜそのような意味ができたのか?それを私たちは受け取ってどう感じるのか?を考えていくのです。
すべての物語は書かれてしまっている?
私たちは、小説を読むときや映画を観るとき、どんな物語が待っているのだろうと想像しながら心を躍らせます。ネタバレを敬遠するのも、ストーリー展開に興味を持っているからこそです。
しかし、楯岡先生によれば、ストーリー展開のパターンはすでに出尽くしており、おおよそ決まっています。
例えば、1928年というかなり前の段階で、ロシアの研究者であるプロップが『昔話の形態学』の中で、魔法を使うおとぎ話は31個の要素をどう組み合わせるかで決まっている、と分析しています。
簡単に言うと、1英雄(主人公)に課題が与えられる2遠くへ行く3特別な道具やヘルパーを手に入れる4敵を倒して問題を解決する5姫と結ばれるという流れです。
おとぎ話だけでなく、悲劇、メロドラマ、抒情詩などにもいくつかの物語パターンがあり、それを逸脱したり組み替えたりしているだけだと言えます。
というわけで、ストーリー自体を分析することには限界がきています。文学研究においても、ずっと同じことを続けているのか、というとそうではありません。
文字を「聞く」「見る」
絵画がただの色彩に戻ったように、文学もインクの染みや文字そのものに戻ってみないか、という運動が20世紀初頭に詩人や文芸評論家などの間で起こりました。
例えば「見」という文字を見たときに、私たちは「見」という漢字がなぜ目に足が二本生えているような形をしているんだろう、と感じることはなく、モノを見るという意味で捉えています。
そこをもう一度、文字・言葉そのものに肉薄する、当たり前のものを当たり前のものではなくする「異化」の試みです。
ここで、フレーヴニコフというロシア未来派の詩人の詩を紹介します。
UTokyo Online Education 【文学部】物語の形:聞こえるものと見えるもの 2019, 楯岡 求美
左がロシア語で書かれたもの、右は日本語に訳したものです。
訳を見ても、よくわからないかもしれません。これは、ロシア人が見ても全然よくわからないんです。
わからなくすることで、何が起きているんだろうと見る人の興味を惹く意図もありますが、この詩は実は単によくわからない音を並べただけではありません。しかし、誕生から110年以上経った今でも、まだ多くの謎を残している作品です。
ここからは、楯岡先生の解釈です。
まずは「ボベオビ」の部分。bobeobiと声に出して発音してみてください。bの音を発音するとき、唇が震えるのを感じませんでしたか?このように唇がぶつかって音がでることを「唇が歌われる」と表現していると言えます。bの音が入っていないoの部分も、唇を強く緊張させる音になっています。
次の「ヴェエオミ」。ヴェの音はロシア語で強調の意味があります。これは、エッと驚いて目を見張り、相手をじっと見て眼差しが光っている様子を表していると考えられます。
「ピエエオ」は、ピッと眉を潜める、エッと驚いて眉が開き、オッと訝しんで眉が締まるような動作を想像することができます。
次の「リエエイ」は、口に出してはっきり発音してみると口角が自然と上がる音です。つまり、顔が一番魅力的に見えることを「顔が歌われ」と表していると考えられます。
最後の「グジグジグゼオ」は鎖の音で、顔が機械のように鎖に繋がれてガシャガシャと動いているようなイメージが浮かび上がります。つまり、顔というものを、音と絵で視覚的に翻訳している詩だと捉えることができます。
まとめ
本講義は、文学に留まらず、小説、絵画、デザインをいつもと違う角度から考えるきっかけを与えてくれます。
講義動画では、有名な怪談やトルストイのエッセイなど、ここでは紹介しきれなかったテクストの解説もご覧いただけます。興味をお持ちになった方は、ぜひ講義動画をご覧ください!
<文/RF(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:オープンキャンパス 模擬講義 2019 【文学部】物語の形:聞こえるものと見えるもの 楯岡 求美 先生
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2025/06/18
コロナ禍を経て、私たちの生活は大きくオンラインへとシフトしました。
オフィスに出社せず自宅で仕事をするテレワークだけでなく、大学の講義においてもオンラインとオフラインを組み合わせたハイブリッド開催が一般化。情報通信技術によって時間や場所に縛られない柔軟な参加が可能になっています。
では、そんな現代において、大学やオフィスに行くことにはどのような価値があるのでしょうか?
一般的には、「オンライン」か「対面」かを対置させ、人と人との繋がりという面からその差異を議論することが多くあります。一方で、建築の歴史や理論を専門とする加藤耕一先生は、ポストコロナ時代には情報通信技術をどう活用していくか、物理空間の価値は何か、両面を考える必要があると言います。
本講義では「情報空間(オンライン)」か「物理空間(オンサイト)」か、という対比で19世紀・20世紀の建築史を比較しながら、人と場所、人と建築、人と都市とのつながりをテーマに、現代における建築・都市空間の役割を考えていきます。
UTokyo Online Education ポストコロナ時代の建築・都市空間の役割 Copyright 2021, 加藤 耕一
東京大学安田講堂の魅力
UTokyo Online Education ポストコロナ時代の建築・都市空間の役割 Copyright 2021, 加藤 耕一
本講義も、安田講堂とオンラインのハイブリッド形式で開催されました。
加藤先生は、話者にとって安田講堂は緊張感・高揚感のある場所だと話しますが、それは何に起因するのでしょうか?
まず第一に、安田講堂が東大の象徴で非常に有名であるため、その場で話すことを名誉に感じる点が挙げられます。これは言葉や情報として伝達可能な安田講堂の素晴らしさであり、意味論的・情報的な観点です。
第二に、実際にこの空間を訪れたときに感じるアカデミックな雰囲気により、気分が高揚する点が挙げられます。これは、言葉にできない物質的・体験的な観点です。
前者は、オンライン空間でもバーチャル安田講堂というような形で伝えることができる要素である一方で、後者は実際に空間を訪れて手で触れたり椅子に座ったりすることでしか伝えられない要素だと言えます。
例えば、実際に安田講堂を訪れる自分を想像してみてください。
東京大学の正門を通り、左右に歴史的な法文校舎を臨みながら銀杏並木を抜けると、突き当りに安田講堂が立ち現れます。そして安田講堂の大空間に包まれながら重厚なベロアの椅子に座ります。
UTokyo Online Education ポストコロナ時代の建築・都市空間の役割 Copyright 2021, 加藤 耕一
そしてそのような一連の体験が、人と場の関係性をつくるのです。
加藤先生は、建築空間や都市空間を考えるとき、このような物質的・体験的価値が今後ますます重要になると話します。
19世紀の都市型公共建築の魅力
安田講堂は1921~1925年に建設された20世紀初頭の建築ではありますが、19世紀的な要素を多分に含んでいます。
パリの19世紀の都市型建築と比較しながら、その魅力について考えてみましょう。
劇場建築
まず例に挙げるのは、パリのオペラ座です。安田講堂と同じように、直線道路と突き当りのモニュメントという形で建っており、この道を進めばたどり着くという高揚感を生んでいます。
UTokyo Online Education ポストコロナ時代の建築・都市空間の役割 Copyright 2021, 加藤 耕一
そして入場してすぐの場所、エントランスには大階段があります。観客はそれを上ることでオペラという非日常的な体験に向かう特別な気持ちを楽しむことができるのです。
百貨店建築
続いて例に挙げるのは、世界で最初の百貨店と言われているパリの「ボン・マルシェ」。オペラ座同様、大きな吹き抜け空間があり、エントランスから大階段を上っていく構造です。
UTokyo Online Education ポストコロナ時代の建築・都市空間の役割 Copyright 2021, 加藤 耕一
現在は改修され、大階段はなくなりエスカレーターに変わっていますが、パリのサマリテーヌ百貨店では現在も吹き抜けと大階段が残っています。
図書館建築
UTokyo Online Education ポストコロナ時代の建築・都市空間の役割 Copyright 2021, 加藤 耕一
最後に例に挙げるのは、19世紀半ばに開館した歴史上最初の公共図書館といわれる「サント・ジュヌヴィエーヴ図書館」。歴史的な意匠を備えた建築で初めて鉄が大々的に用いられているという点でも重要です。
これらは、王侯貴族から市民の時代へ向かう新しい時代に市民のために作られた公共建築です。
しかし現代において、劇場はテレビ・ネット配信、百貨店は通信販売・Eコマース、図書館はネット書店・電子書籍に代替されようとしています。つまり、ある意味滅びに瀕している建築群であるとも言えるのです。
苦境に立たされているこれらの建築が再び人を惹きつけるにはどうすればよいでしょうか?
加藤先生は、情報通信技術と方向性がバッティングしてしまう、コンテンツやサービスで勝負をしようとするのではなく、物質の軸で考える必要があると言います。
その際に、これらの建築が持つ場所の雰囲気、居心地、高揚感を創り出すものを見つめることで、建築空間としての魅力や人と場所のつながりが見えてくると言うのです。
続いては、それを考えるうえで障壁になる20世紀の建築観について見ていきましょう。
20世紀モダニズムの建築観
20世紀の建築観は、モダニズムと呼ばれる建築運動の中で作られてきた価値観です。モダニズムでは、機能性・合理性・効率性を重視し、建築においてはさまざまな機能を持つこと、どんな用途にも対応すること(ユニバーサルスペース)、経済的合理性、メンテナンスフリーなどが推進されました。
その中で、装飾の否定や規格化・標準化、最小限・低コスト・シンプルを目指す美学が生まれます。
UTokyo Online Education ポストコロナ時代の建築・都市空間の役割 Copyright 2021, 加藤 耕一
その結果、19世紀の建築が持つ技術性、産業性、機械性は称賛される一方で、過大で高コスト、ラグジュアリーな19世紀の建築空間はモダニズムと対立するものとして否定されていきます。
19世紀の建築観
ここからは19世紀と20世紀の分水嶺となる時期に活躍した建築家アドルフロースの理論を参照しながら、19世紀の建築観について掘り下げていきます。
ロースはたくさんの文章を残していますが、中でも重要なのは19世紀的建築理論の集大成である「被覆の原則について」と20世紀的建築理論の創始ともいえる「装飾と犯罪」です。
UTokyo Online Education ポストコロナ時代の建築・都市空間の役割 Copyright 2021, 加藤 耕一
ロースは「被覆の原則について」において、19世紀的価値観では布地に囲われた居心地のよい空間が最も重要であること、インテリアデザインありきで建築構造は後から考えるものであることを説明しています。
これは、まず箱としての建築構造があり、その後にインテリアデザインが起こると考える20世紀以降の価値観とは対照的です。
UTokyo Online Education ポストコロナ時代の建築・都市空間の役割 Copyright 2021, 加藤 耕一
実際に19世紀のインテリアを描いた絵画作品を見ると、ロースが主張する通り、絨毯、カーテンやテーブルクロスなど布地のマテリアリティが強く感じられます。
では、なぜ19世紀には「布地に囲われた居心地のよい空間」が求められていたのでしょうか?
その理由は、産業革命と深く結びついています。
建築史上、産業革命の発明と言えば鉄と蒸気機関です。鉄は建築の構造とデザインを革新的に変化させ、鉄道(鉄+蒸気機関)は都市空間や都市間の関係性を変貌させた、というテーマは繰り返し論じられてきました。
しかし、これまで建築史の分野で見落とされてきた重要な発明がもう一つあります。それは、紡績と織物工業の発達です。産業革命によって生み出されたファブリック、布地の氾濫によって建築の内部空間が大きく変化したのです。
ロースの他にも、19世紀の室内空間におけるマテリアルの問題を論じた思想家としてベンヤミンのエッセイを紹介します。
ベンヤミンは著作『パサージュ論』で、いかに19世紀のパリが近代的であったかを論じました。その中で、人々は都市空間に出ると群衆の1人となる一方で、室内空間は「私人の宇宙」であり「大都市での私的な生活の形跡の不在を取り戻したいという傾向が見られる」と主張しています。
生活の形跡とは、布地の椅子に座った際に生まれる跡や、懐中時計を持って出かけた際に残るケースのようなもの。だからこそ「あらゆる接触の跡を残すビロードやフラシ天の布」が好まれたという訳です。
21世紀の建築空間
「いかに居心地の良い空間を作るか」を重視する19世紀的建築観は、オンライン化で住宅で過ごす時間が増えている現代の私たちに通じるものがあります。
例えば、21世紀の建築家ペーター・ツムトアも、ベンヤミンが論じた観点に注目しています。
ツムトアは、映画のワンシーンを例に挙げながら舞台であるダンスホールについて考察し、そこに残る人間が生きた痕跡と、床や壁のようなマテリアルが持つ時間性が重要だと述べています。
彼によれば、「すぐれた建築は人間の生の痕跡を吸収し、それによって独特の豊かさを帯びることができる」のです。
この主張は至って当たり前に感じられますが、マテリアリティの本質的な側面「ヒトがモノに痕跡を残し、今度はその痕跡によって、モノがヒトに語り掛ける」ということを言い表しています。
まとめ
本講義では、私たちが常識として考えがちな20世紀的価値観(機能性・合理性・効率性)を疑って相対化すること、人と場所(物質)のつながりを考えることを試みています。
機能性・合理性・効率性を情報通信技術が担うようになった現代では、建築空間が考えるべきはいかに居心地が良い空間を創るかであり、そこで19世紀的価値観が鍵になるということを説明しました。
講義動画ではここでは詳しく説明できなかった理論について、加藤先生がよりわかりやすく解説されています。興味を持った方はぜひ動画をご覧ください!
https://youtu.be/pOehSZPmCwo?si=dQv-UrzL2mpLPmuh
<文/RF(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:第133回(2021年秋季)東京大学公開講座「繋がる」 ポストコロナ時代の建築・都市空間の役割 加藤 耕一 先生
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2025/05/14
映画のキャラクターとしてもよく知られている「カクレクマノミ」。実は、オスからメスに性転換をする魚だということはご存知でしたか?
カクレクマノミは、なんと2匹のオスが出会うと体の大きい方が必ずメスに性転換するというルールを持っています。
映画の物語では、お父さんと子どものクマノミが仲良く暮らしていますが、体の大きいお父さんクマノミがお母さんクマノミに性転換する、という流れが生物学的には正しいのです。
今回はご紹介するのは第135回(2022年秋季)東京大学公開講座「境界」から「オスとメスの境界を越える魚たち」。
魚の性別を研究する大久保範聡先生とオスとメスの境界を軽々と越える魚の世界を覗いてみませんか?
UTokyo Online Education 東京大学公開講座「境界」2020 大久保範聡
早速ですが、こちらの画像をご覧ください。
UTokyo Online Education 東京大学公開講座「境界」2020 大久保範聡
これらの魚は、実は、性転換をするという特徴を持っています。
例えば「クエ」は、お鍋にして食べるととてもおいしい魚ですが、最初は皆メスとして生まれ、体が大きくなると一部の個体がオスに性転換します。
また、少しマイナーな魚ですが、鹿児島から沖縄にかけて住むオキナワベニハゼは、なんとメスからオスに、オスからメスに何度でも性転換をすることができます。
このように魚の中には性転換をする種類が多くいますが、もちろん性転換しない魚もいます。
UTokyo Online Education 東京大学公開講座「境界」2020 大久保範聡
例えばメダカやキンギョ、ティラピアやゼブラフィッシュは通常性転換をしません。
しかし、最近の研究では、体内のホルモンバランスを人工的に変えることで、これらの魚でも簡単に性転換をするということがわかってきました。
メスの魚は、体内に多くの女性ホルモンを持っていますが、この女性ホルモンを減らすと、メスは簡単にオスに性転換するのです。
人間は、女性ホルモンを減らすだけで男性になることはありませんが、魚の場合は普段性転換しない魚でも、性転換するポテンシャルを持っているということになります。
動物の性別はどう決まる?
そもそも、動物の性別はどのように決まっているのでしょうか?
まずは、私たち人間のケースを考えてみます。
UTokyo Online Education 東京大学公開講座「境界」2020 大久保範聡
私たちの体を構成している細胞の中には46本の染色体が入っており、その大きさと形から番号がついています。それぞれ2本ずつあるのは、一つを母親から、もう一つを父親から受け継いでいるためです。
ここで、上の画像の中で、番号がついていない染色体に注目してみてください。片方が大きく片方が小さくなっています。この大きい方をX染色体、小さい方をY染色体と呼び、それらを合わせて性染色体と呼びます。
名前の通り、これが人間の性別を決める染色体です。XYという組み合わせであれば男性、XXという組み合わせであれば女性になります。
つまり、母親からX、父親からもXを受け継いだ場合は女性になり、母親からX、父親からYを受け継いだ場合は男性になるという仕組みです。
UTokyo Online Education 東京大学公開講座「境界」2020 大久保範聡
魚の性別はどう決まる?
では魚の場合はどうでしょうか?
答えは、魚の種類による、です。
UTokyo Online Education 東京大学公開講座「境界」2020 大久保範聡
例えば、ヒラメ、トラフグ、メダカは、ヒトと同じで、XXを持っていればメス、XYを持っていればオスになります。
一方で、ブリ、ウナギ、ジャワメダカは、ヒトとは逆で、XXを持っていればオス、XYを持っていればメスになります。
どちらの性染色体をもつかは、同じメダカの仲間でも異なっていたりと、非常に近い種類の魚でもバラバラです。
そしてここまでは性染色体によって性別が決まる流れを見てきましたが、ここからが魚の面白いところ。魚の世界では、性染色体で決まっていた性別が、生育環境によっていとも簡単に書き換えられてしまいます。つまり、性染色体で定められた性別が絶対ではない、ということです。
環境でオス化する魚たち
では、早速例を見ていきましょう。
魚は、子どものときにどれくらいの水温で育ったかによって性別が変わることがあります。
例えばメダカやヒラメは、子どものときに32~33℃を超える高い水温にさらされると、性染色体がXX(メスになる個体)であってもオスになってしまいます。夏場に水温が上がりすぎたことにより、家で飼っていたメダカがすべてオスになって絶滅してしまった、というのは実はよくある話です。
ヒラメの場合は、この性転換が養殖の際に重要になってきます。なぜかというと、ヒラメはオスよりもメスのほうが体が大きく成長も早いため、オスになってしまうと養殖業の観点では損になるからです。
一方、トラフグは白子が取れるオスのほうが商品価値が高くなります。トラフグは、メダカやヒラメと逆に低温で育つとオスになるため、低い温度での養殖が行われています。
水温以外にも、性転換を引き起こす環境要因はいくつかあります。
例えば私たちがよく食べているウナギは、体が小さい時期に高密度で飼育すると、本来はメスになるはずの個体もオスになります。
オス化を起こすのはストレス?
では、特定の温度や密度でオスになるのはなぜでしょうか?
実は最近の研究で、その理由が明らかにされつつあります。
魚にも人間と同じように、最適な環境があります。そのため、低い水温を心地よく感じる魚が高い水温に晒されたり、単独行動を好む魚が高密度の環境に入れられたりすると、それはストレスになります。
私たち人間もストレスがかかると、副腎皮質という場所でコルチゾルというストレスホルモンが分泌されますが、魚の場合このコルチゾルがオス化を引き起こすのです。そのため、ストレスを与えるだけでなく餌にコルチゾルを含ませるだけでも、オスになります。
性別を持たない魚たち
これまでは性染色体を持った魚の性転換について触れてきましたが、実は魚類の中にはそもそも性染色体を持っていない種類も多くいます。つまり、生まれたときには性別が決まっておらず、環境によって後天的に性別が決まります。
例えば、南米に住むペヘレイという魚は、水温が低い時期に生まれるとメスに、水温が高い時期に生まれるとオスになります。アマゾンに住むアピストグラマは、酸性の水で育つとオスに、アルカリ性の水で育つとメスになる特徴があります。
冒頭で紹介した性転換する魚たちも、ほとんどの種類が性染色体を持っていません。
UTokyo Online Education 東京大学公開講座「境界」2020 大久保範聡
カクレクマノミは、性別を持たずに生まれ、ある程度大きくなると一旦みんなオスになります。そして、周りの仲間の中で一番体が大きくなると、メスになるのです。クエ、キンギョハナダイ、クロダイもカクレクマノミと同じように、体の成長度合いによって性別が決まります。
そしてさらに、魚類の中には1個体の中にオスとメスが共存する、雌雄同体の魚もいます。精巣と卵巣をどちらも持っている魚です。
UTokyo Online Education 東京大学公開講座「境界」2020 大久保範聡
例えばハムレットという魚。この魚はシェイクスピアのハムレットの有名な一節「生きるべきか、死ぬべきか」のように「メスになるべきか、オスになるべきか」常に迷っているだろうということから、名付けられました。このハムレットは、2匹がペアになり、オスとメスを互いに入れ替えながら産卵します。
一方、雌雄同体の魚の中にはつがいにならず一匹で繁殖する種類もいます。マングローブキリフィッシュという魚です。この魚は、脊椎動物で唯一、自家受精をする種として知られています。
性転換の意義
話を戻します。
そもそも、なぜ魚は性転換をするのでしょうか?
それには、性転換をすることでより多くの子孫を残せるという合理的な理由があります。
メスからオスになる魚の場合
実はキンギョハナダイ・ブダイの仲間などメスからオスになる魚は、ハーレムを形成する特徴があります。一匹のオスがメスを独占して繁殖するのです。
まず、体が小さい時の状況を考えてみましょう。
体が小さいオスは自分のハーレムを持てず、繁殖に参加できません。一方で、メスであれば体が小さくてもハーレムの一員になることができます。
そのため、体が小さいときは、オスであるよりもメスである方が有利となります。
しかし、ハーレムを形成するほど体が大きくなった際には、ハーレムの一員であるメスよりもオスになりハーレムを率いる方が有利となるため、オス化するというわけです。
オスからメスになる魚の場合
一方で、カクレクマノミ・クロダイ・ハナヒゲウツボなどオスからメスになる魚の場合はどうでしょうか?
これらの魚にはランダムにつがいをつくる、という特徴があります。
ここでヒントになるのは、
・魚の場合、体が大きいほど、より多くの精子や卵をつくることができる
・1匹の魚がつくる精子と卵の数を比べると、圧倒的に精子の方が多い
ということです。
体が小さいときの状況を考えてみましょう。
自分の体が小さいとき、ほとんどの場合は自分より大きい魚とつがいになります。その場合、自分は小さくても数を増やしやすい精子をつくるオスとして、体の大きな相手に卵を産んでもらったほうが、余裕をもって繁殖できます。
一方、体が大きくなった際には体が小さい相手とつがいになる可能性が高いため、自分がメスであった方がより多く子孫を残すことができます。
このように性転換とその方向性は、その魚がどのような繁殖様式を持っているかに対応しています。
どちらの方向性にも性転換する場合
では、ホンソメワケベラやオキナワベニハゼのようにどちらの方向にも性転換する魚はどうでしょうか?
これらの魚は単独行動を好むため、同じ種類の魚と出会う確率が低いという特徴があります。そのため、どんな相手とも繁殖できるよう、どちらの方向性にも性転換できるのです。
魚にとって、性転換はより多くの子孫を残すための最善策となっています。
まとめ
これまで見てきたように、魚にも多様な性別の決まり方があることがわかりますが、大久保先生は、魚の性別の世界はもっとディープなものだと話しています。
実際に本記事では紹介しきれなかった、魚の性転換の仕組みや魚の「脳の性別」についてなど、講義内ではさらに興味深い内容が紹介されています。
ご興味のある方はぜひ講義動画をご覧ください!
<文/RF(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:第135回(2022年秋季)東京大学公開講座「境界」オスとメスの境界を越える魚たち 大久保 範聡先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
2025/05/02
ゲームって、ニンテンドースイッチやスーパーマリオブラザーズのような…?
そのゲームが研究対象になり得るの?
タイトルを見てそう思われた方も多いかもしれません。
実はこのようなデジタルゲームは、技術やメディアをめぐる環境が目まぐるしく変化している現代において、私たちの「感性」を理解するうえで重要な鍵となると考えられています。
今回ご紹介するのは、2021年度高校生と大学生のための金曜特別講座「デジタルゲームの感性学」。日本のゲーム研究を牽引する吉田寛先生と私たちの日常にあるゲームについて改めて考えてみませんか?
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 吉田 寛
美学・感性学とは?
本題に入る前に、講義のタイトルにもある「感性学」とはどのような学問なのでしょうか?
簡単に言うと、美(美しさの性質に関するもの)、芸術(具体物に関するもの)、感性(人間の能力や特性に関するもの)の3つの領域を対象とする学問です。
日本では美学とも呼ばれている感性学は、元々「エステティックス」という言葉を翻訳したもので、1750年にドイツのバウムガルテンが刊行した『エステティカ(Aesthwtica)』が始まりだと言われています。
では、今回のキーワードである「感性」について改めて考えてみましょう。
感性とは皆さんがご存知の通り、一般的に物事を感じ取る能力のことですが、実はその捉え方は時代ごとに異なっています。
現代の私たちからすると、感性にはなんとなくポジティブで豊かな能力というイメージがありますが、18世紀までは感性は表象(外界にある情報)を受け取るだけの受動的で貧しい能力だと見なされていました。
しかし、19世紀以降は能動的・創造的な能力としての感性に注目が集まります。例えば、見ることは外界の情報を受け取るだけではなく、私たち見る側が展開し形成することであり能動的な能力だ、という捉えなおしが起こりました。つまり、何かを受け取ることは創ることと同じだ、という考え方です。
20世紀以降、現代に至るまでこの風潮は続いていきます。
さらに、知覚は、機械的な記録ではなく、発明的な創造がなされている行為であるという考え方も生まれました。見ることや感じることには、知識を用いた判断や思考が含まれているということです。
例えば、下の画像を見てください。
真ん中の絵を見たとき、私たちは右の絵のように上と下で二つの形に分けて捉えるのではなく、左の絵のように二本の線が交わったものとして捉えます。
これは、私たち人間が連続したパターンや線、形状を一つのまとまりとして捉えようとする傾向があるためです。
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 吉田 寛
このように、私たちの知覚は、実は判断や知識、経験などを含んでいます。
現在の感性学は哲学をベースにしつつ認知科学や工学を取り入れながら、この「感性」について考える学問です。
なぜゲームを研究するのか?
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 吉田 寛
本題に入る前に、なぜ学術的にゲームが研究されるようになったのか、考えていきましょう。
そもそも、ゲームとは、単なる娯楽品だというイメージをお持ちの方も多いのではないでしょうか?実際に、長い間、ゲームや遊びは研究するに値しないものだとみなされてきました。
しかし、20世紀に入り、ゲームや遊びが実は人間の進化に必要なもので、人間の本質的な特性を知る鍵となるという見方が普及していきました。
そのきっかけとなったのは、ホイジンガという人の『ホモ・ルーデンス』という本です。
ゲーム(遊び)の5つの特徴
ホイジンガはゲーム(遊び)には以下の5つの特徴があると論じました。
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 吉田 寛
ホイジンガは、この5つの特徴を人間が文明を創るうえで基礎となるものだとして、ゲーム(遊び)の重要性を説いています。
中でも、研究者が注目するゲーム研究のポイントを2つ紹介していきます。(こちらでは割愛しますが講義内では3つ目の創造性についても触れられていますので、ぜひ動画をご覧ください。)
楽しさと没入
先ほどの「自由・自発性・自己目的性」の論点を引き継いで多くの研究が行われているのが、「楽しさと没入」というテーマです。
ここでは、遊びは、没入、集中、自発性、内的動機づけのメカニズムを考える上で重要な手掛かりになるという考えに基づいています。
例えば、心理学者チクセントミハイは、遊びを元に人間の能力を研究しようとした人としてよく知られています。
彼は、「楽しいからどんどんやってしまう」という遊びのメカニズムは、勉強や仕事にも応用できるのではないかと考えました。実際に、アーティスト、ロッククライマー、ダンサー、外科医のような職業は、ゲームをするのと同じように仕事をしていると彼は主張しています。
演技と参加
ホイジンガの規則・規範と関係するテーマとして「演技と参加」があります。我々は遊ぶことで他人と関わり、共同体へ参加しているという考え方に基づくものです。
英語のplayは「遊ぶ」だけでなく「演じる」も意味するように、実は遊ぶことと演じることはもともと本質的に結びついています。
例えば、ベイトソンという研究者は、「遊びはメタコミュニケーション(コミュニケーションについてのコミュニケーション)であり、人間の思考と行動の進化を解明する鍵である」と主張しています。ベイトソンによれば、遊ぶというのは特殊な行為、普通のコミュニケーションとはレベルが違うコミュニケーションだというのです。
例えば、人を騙すというのは普通のコミュニケーションであるのに対し、「これは嘘であるということを伝えたうえで嘘を言う」行為である冗談はメタコミュニケーションにあたります。
ごっこ遊びやジョークは、この行為は嘘だと言いながら行為をする、というきわめて知的な行為で高等生物にしかできないことで、「遊びという現象の発生は、コミュニケーションの進化における重要な一歩だった」とベイトソンは考えます。
なぜデジタルゲームが重要なのか?
ではなぜ感性学の視点でデジタルゲームが重要になるのか、考えていきましょう。
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 吉田 寛
デジタルゲームとは学術的な呼称で、テレビゲームやビデオゲームと同じものを指します。
そんなデジタルゲームですが、実は上のように既に長い歴史を持っています。
最初のデジタルゲームは、1950年代にアメリカの軍事研究所が、軍事施設の一般公開に向けてエンターテインメントとしてつくった「tennis for two」。ミサイルの軌道を計算するコンピューターを利用したテニスゲームです。
上の画像のようにこれまでたくさんのデジタルゲームが作られてきましたが、なぜこれらのデジタルゲームが重要なのでしょうか?
1つは、デジタルゲームのメディア的な特性にあります。
例えば、ゲームは同じポピュラーカルチャーのアニメや漫画とよく比較されますが、ゲームとそれらの決定的な違いは、プレイヤーが参加するインタラクティブなメディアであることです。
コンピューターやインターネットの研究はニューメディア研究と呼ばれ、受け手がオーディエンスではなくインタラクティブユーザーであるという大きな特徴があり、これまでと異なる着眼点が必要とされます。
(こちらでは省略しますが、動画ではデジタルゲームとその他のゲームの違いについても触れられていますので、ぜひご覧ください。)
他にも、驚くことに、デジタルゲームで遊ぶことは認知能力を向上させるという研究結果も出ています。デジタルゲームの悪影響が叫ばれる一方で、ルールの規則性を発見し推理する能力や、空間を認知する能力の向上など、様々な側面でデジタルゲームが私たちの認知能力に影響を与えています。つまり我々の感性にデジタルゲームが影響を及ぼすのです。
以上を踏まえて、吉田先生は、デジタルゲーム感性学の問いとして
コンピューター時代の遊びを代表するデジタルゲームは我々の感性や想像力、思考とどのように結びついているのか?
遊びがもつ3つの意義(楽しさと没入、演技と参加、創造性)はデジタルゲームのなかでどのように展開、深化しているのか?
の2つを掲げています。
ドラゴンクエストのチュートリアルにみる工夫
最後に1つケーススタディとして、ゲームの「チュートリアル」におけるデザインの工夫を紹介します。チュートリアルとは、初心者に向けた基本的な操作方法の説明やトレーニングのことです。
洗濯機や車など現代の機械製品はユーザー中心のデザインが求められています。ゲームでも、このチュートリアル自体を「ゲーム自体の内側」に取り込み、ユーザーにわかりやすいデザインの工夫がされています。
日米の最初期のロールプレイングゲームを比較してみると、このユーザーフレンドリーなデザインの特徴がわかります。
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 吉田 寛
まずは上の画像をご覧ください。こちらはドラゴンクエストの元になったとされているアメリカの『ウルティマ』というゲームの最初の画面です。
左の方に進むと城が見え、入ればゲームが始まりますが、このデザインの場合初心者が迷ってしまう可能性があります。開いたフィールドが、ユーザーに過度な自由を与えてしまっているのです。
次に、これを基にして開発されたドラゴンクエストの画面を見てみましょう。
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 吉田 寛
当初はウルティマのような開いたフィールドからのスタートが想定されていましたが、初心者の子どもたちにはわからないだろうと判断されました。その結果、鍵のかかった部屋からゲームが開始され、部屋の中で一通りの操作を習得する仕組みになっています。
まとめ
これまでの内容を踏まえ、ゲームの新しい一面を発見できた方も多いのではないでしょうか?
講義内では、ここでは紹介しきれなかった様々なゲームが取り上げられています!興味のある方はぜひ動画をご覧ください。
https://youtu.be/DGU32EC78uo?si=nCFHVbIGvBpiu18I
今回紹介した講義:2021年度:高校生と大学生のための金曜特別講座 デジタルゲームの感性学 吉田 寛 先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
<文/RF(東京大学学生サポーター>
2025/04/24
発達心理学とは?
発達心理学の観点から見た人間の進歩は、様々な側面で捉えることができます。そもそも発達心理学とはどのような学問なのでしょうか?発達心理学とは、ヒトの一生を通じた成長と変化を理解するための学問です。この学問分野は、子どもから大人になるまで、そして老年期までの発達過程を研究対象としており、ヒトの一生とともにある学問です。
発達心理学の研究は、教育・健康・福祉など、さまざまな分野に応用されており、その成果はわたしたちの生活、そして社会に大きな影響を与えています。今回は、そんな発達心理学からみた、“子育て”について取り上げてみることにします。発達心理学の学知を基に、子どもの発達段階に応じた支援・親子関係・社会的支援の構築などから、ヒトの子育てがいかに特殊であるかを深掘りしていきます。
ヒトの子育ての特殊性
ヒトの子育ては他の動物と比較して非常に特殊です。では、それは一体どのような点においてなのでしょうか。今回ご紹介する『東京大学公開講座「人間は進歩しているか?」-発達心理学から見た人間の進歩』(2014年開講)では、遠藤利彦先生がヒトの子育てについて詳しく解説されています。
UTokyo Online Education 発達心理学から見た人間の進歩 Copyright 2014, 遠藤 利彦
子育ての進歩の“光”と“陰”
遠藤先生によると、子どもの育ちをめぐる全体的状況は確実に進歩しているといえます。例えば、乳児死亡率の大幅な低下、識字率の改善など、多くの点において進歩が見られ、「子どもの発達・人の生涯発達に関わる科学は様々な新しい方法論を得て、めざましい発展を遂げている」と遠藤先生はおっしゃっています。
一方で、子育てをめぐる全体的な状況が進歩しているにもかかわらず、本質的な部分においては「果たして進歩しているといえるのか?」と疑問視しています。例えば、子育ての知識が蓄積されているのにも関わらず、それらの知識の進歩が実践的な場面において生かされていないという問題です。
遠藤先生は、現代の子育ては、知識ばかり蓄積された頭でっかちな状況に陥ってしまっていることを危惧しています。では、改めて子育ての現状を捉えるために、子育てが元来どのようなものであったかについて考えてみましょう。
ヒトの子どもはどうやって育てられてきたのか?
ヒトの赤ちゃんは、他の動物に比べて未熟な状態で生まれます。さらに、他の動物の新生児よりも重いという特徴もあります。また、養育期間も他の動物に比べてとても長期間に渡り、養育者の負担が重くのしかかってきます。これらの特徴は、子育てに大きな影響を与えます。
ヘルパー・サポーターの必要性
ヒトの子どもを育てるには、さまざまな形での協力が必要です。
UTokyo Online Education 発達心理学から見た人間の進歩 Copyright 2014, 遠藤 利彦
ヒトの子育てには膨大な時間がかかります。そのため、子どもを支えるために両親が長期的なパートナーの関係を築くことになります。これは、我々人間にとっては当たり前のことでしょう。しかしながら、実はこれは動物の世界では一般的ではないのです。他の動物では、同じパートナーと長期的に過ごすことは多くはありません。ヒトの子育ては、単なる一対一の親子関係ではなく、両親と子どもからなる、規模としては小さいながらも非常に強力な共同体のなかで行う形態を発展させてきたのです。
一般に、他の動物では、メスは死ぬまで子どもを産み続け、子どもと、「母-子」の直接的な親子関係のもとで育てます。言い換えると、子どもを産めなくなったら、それは死を意味するのです。しかしながら、ヒトは子どもを産めなくなった後も長く生き続けます。
ではおばあさんはどのような形で子育てに参入するのでしょうか。例えば、おばあさんが、孫などの次世代の子どもの世話をすることで、子どもの母親はより多くの子どもを育てることが可能となります。これにより、結果的に集団としての生存率を向上させることができるのです。よってヒトの子育てにおいておばあさんという存在の重要性は非常に高いのです。
ヒトの子育ては集団でおこなわれてきた
子育ては親だけが行うものではありません。サラ・ハーディーの著書「マザー・ネイチャー」では、「人の子育ては集団で行われてきた」という記述があります。これについては、たとえ子育てを経験したことがない人たちにとっても、私たちがどのように育ってきたかを考えるとわかりやすいです。子ども時代を思い返したときに、我々が関わったのは両親だけでしょうか。決してそんなことはないはずです。幼稚園の先生、風邪をひいたときに診てくれたお医者さん、お母さんが買い物に行く間に預けられた先の近所のおばさんなど、挙げたらきりがないほど多くの人々に支えられて生きてきたことでしょう。
子どもは、非常にかよわい存在であり、特に幼い子どもは放っておくとすぐに命の危険に晒されてしまうほどです。支えてくれる大人がいない状況においての子どもは無力であるといっても過言ではないです。これは子ども目線でも、同様に己の無力さを感じるでしょう。
実際、私が5歳のときにショッピングモールで迷子になってしまった際には、冗談抜きで「死ぬ」と思った経験があります。今考えれば、迷子が死に直結することなどあり得ないですが、当時の私にとって、すぐに助けてくれる大人がいないことへの不安は非常に大きいものでした。
話は逸れましたが、ヒトの子育ては親以外による養育も重要な鍵を握っており、多くの人々の存在から成り立つ集団型子育てが、もともとのヒトの子育ての姿なのです。
現代の子育ては…
UTokyo Online Education 発達心理学から見た人間の進歩 Copyright 2014, 遠藤 利彦
現代は、男女共同参画・「イクメン」・保育の拡充など、子育てに対してさまざまな角度からアプローチする試みが行われており、確かに、母子関係中心主義は薄れつつあります。しかしながら、いまだに子育てが母親中心のものと考えられる傾向が根強く残っており、子どもが非行に走るなどの原因を全て母親に依拠するといった考えは、依然として存在します。
現代における子育ての理想の形とは
では、どのような子育てがなされることが理想といえるのでしょうか。遠藤先生によると、現代の事情に適った集団型子育てを模索する必要があるそうです。また「子どもの発達を阻害するのは母親の有無ではなく、サポートネットワークの剥奪である」とおっしゃっています。
まとめ
発達心理学から見た人間の進歩は、子育ての実践において非常に重要なことを私たちに気づかせてくれます。本講義は、親子関係にとどまらず子育て全体を広い視野で捉えるものとなっています。私は記事を書きながら、自分はどのような子ども時代を過ごしてきたか、当時の大人たちは自分にどのように関わってくれたかなどを思い出すとともに、子育ての奥深さを感じました。おそらく、本講義はみなさんにとっても、子育て、ひいては現代社会における育児の課題などについて考える、よいきっかけを与えてくれるでしょう。子どもの認知発達、情緒の発達、生涯にわたる成長など、多岐にわたる領域での研究が、現代の子育てにおける課題解決や新しいアプローチの開発に役立ちつつも、果たしてそれが実践に繋がっているのかなど、まだまだ課題が残るのが、現代の子育てです。私たちがより良い子育て環境を築くには、子どもたちの健全な成長を支えるには、一体どのようなことが考えられるでしょうか。詳しい内容が気になる方はぜひ講義動画をチェックしてみてください。
https://youtu.be/Or9LBKyO8tg?si=z02ErZAlnqoy-C50
<文/悪七一朗(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:東京大学公開講座「人間は進歩しているか?」発達心理学から見た人間の進歩 遠藤利彦先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
2025/04/09
犬と暮らしている人は、「私が帰ってくるといつもうれしそうに尻尾を振っている。動物にも心があるに決まっている!」と思うかもしれません。
そのような経験がない方でも、動物には心がある、と考える方が多いのではないでしょうか?
しかし実のところ、研究者の世界では「動物に心がある」ことが当たり前とされてきたわけではありません。
そもそも私たち人間にとっても、自分以外の人間に心があるかどうかを科学的に検証することはできません。
今回は、動物に心があることを示すことは原理上不可能かも知れないとした上で、それでも動物の心を知ろうと試みる岡ノ谷一夫先生の講義、2021年度高校生と大学生のための金曜特別講座「動物に心はあるか?」を紹介します。
様々な実験を通して、生物心理学や動物行動学の観点から、動物の心について一緒に考えてみませんか?
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 岡ノ谷一夫
感情
早速、動物の感情に関する実験を見ていきましょう。
鳥の感情
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 岡ノ谷一夫
ジュウシマツという小鳥をご存知でしょうか?重さ約12gで片手に乗るほどの小さな鳥です。
実は、このジュウシマツに新しい餌を与えると、一羽が餌場に行くのを見てから他の鳥が次々とそれに続いていくという行動が見られます。
まずは勇気のある一羽が向かい、他の鳥はその餌が安全であることを確認してから向かいます。この行動は「社会的促進」とも呼ばれますが、観察しているとまるでジュウシマツに感情があるかのように見えます。
ラットの感情
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 岡ノ谷一夫
続いては、ラットを対象にした実験です。
実は、ラットは、私たちには聴こえない音で鳴いていて、嬉しいときには50kHz、悲しいときには20kHzの超音波で鳴くという性質があります。
そこで、他のラットが鳴く音を聴いたラットがどのように感じるかを調べてみます。
まずは画像のように、8の字型の迷路の一カ所にスピーカーを置き、私たち人間にも聴こえる高さに設定した上でラットが鳴く音を流します。
すると、嬉しい鳴き声を聴いたラットはスピーカーに近づいていき、悲しい鳴き声を聴いたラットはその場でうずくまるという結果が得られます。
このことは、他の個体の声によってその個体と同じような気持ちになる「情動伝染」が起こっていることを示しています。これは同情や共感のもとになる現象です。
時間感覚
次に、私たち人間がもつ「時間感覚」に関する実験です。
皆さんはもし「30秒後に手を挙げてください」と指示されたら、心の中で30秒を数えてみるかと思います。
そしてこの時間の計測は、何回か繰り返すうちにより正確になっていきます。
私たち人間はこのような時間感覚を持っているのです。
では動物については、どうでしょうか?
ラットの時間生成行動
ここで、ラットの時間感覚にまつわる実験を紹介します。
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 岡ノ谷一夫
今回の実験では、画像のようにラットに、ある一定時間以上レバーを押してもらいます。例えば、一定の時間を16秒と設定した場合、ラットが16秒以上レバーを押すと真ん中の隙間から餌がもらえる仕組みです。16秒未満でレバーを離してしまうと、餌はもらえません。
人間の私たちからすると、一定の時間以上なのであれば、特に考えずにできる限り長くレバーを押しておけばいいのではないかと考えますが、ラットはお腹がすいているので、16秒ちょうどくらいでレバーを離したい状況です。
さて、どのような結果になるでしょうか?
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 岡ノ谷一夫
画像をご覧ください。こちらは一定の時間を16秒とした場合の結果です。
グラフの右側と左側は、それぞれ違うラットの結果ですが、どちらも17秒程度でレバー離す回数が最も多くなっていることがわかります。
ラットも人間と同じように、時間の計測を繰り返すと、より正確に時間を測ることができるようになっているのです。
ここで、ラットはどのように時間を測っているか、気になる方も多いと思います。
実はラットの脳には、「後部帯状回」と呼ばれる部分があり、そこには刺激を与えてから約200ミリ秒後に反応する神経細胞があります。
その部分に電極を指して先ほどの実験を行うと、レバーを押す際に反応があり、レバーを離す際に反応が戻ることから、この神経細胞が時間感覚に対応していると考えられます。
コミュニケーション
最後に、コミュニケーションに関する実験を見ていきましょう。
ハダカデバネズミの話者交代
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 岡ノ谷一夫
この写真に映っているハダカデバネズミは、西アフリカの地下にトンネルを掘って暮らしている動物です。
ハダカデバネズミは真社会性動物と言い、アリや蜂のように繁殖する個体が限定されていて、他の個体は繁殖個体を助けるために、餌を運んだり敵と戦ったりします。
そして、このハダカデバネズミは発声信号をやりとりして、互いの情報を獲得したり、親和性を高めたりしていることがわかっています。
実際に例を見てみましょう。
このハダカデバネズミが実際に住むトンネルをアクリルパネルで実寸大に再現してみると、実は二匹が横にすれ違う幅はありません。
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 岡ノ谷一夫
そこで、トンネルで二個体がすれ違う時は、お互いに鳴き合い、より低い音声で鳴く個体が上を通るようにしているのです。
重ねて鳴くことはなく、必ず片方が鳴き終わってからもう片方が鳴くことから、話者交代と呼ばれています。
体の構造上、声が低い個体の方が体が大きいというのは物理的特性として決まっているため、このようなコミュニケーションにより、無駄な争いを避けることができます。
ラットの援助行動
続いてラットに関する実験です。
ラットは泳ぐことはできるものの、進んで泳ぐ生き物ではなく、水の中に落とされてしまうともがくような動作をします。
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 岡ノ谷一夫
実はこれまでの実験で、プールから出られないラットがいると、それを観察するラットがドアをあけて救い出そうとすることがわかっています。
この行動はメス同士で特によく見られており、ラットのメスは共同で子育てをするため、互恵的な行動として定着した可能性があると考えられます。
ただし、溺れているラットからどのような信号が出ているかは不明で、溺れている状況全体が救助行動を生んでいるかもしれません。
人間も、道端で人が倒れていれば、自然に助けようとします。
しかしこれは同情からくる行動なのか、自分の社会的評価のためなのか、など理由は様々だと言えます。
このように援助行動というかなり複雑な社会的行動が、ラットにも見られるということがわかります。
まとめ
ここまでの研究を通して、岡ノ谷先生は、少なくとも鳥類や哺乳類については心を持っていると推測するのに無理のない行動が観察できていると結論づけています。
しかし一方で、この結論は私たち人間が他者に自分と同様な内的過程を投射しやすい、擬人化・擬自分化という傾向からの結論でもあり、客観性はないと話しています。
心とは、意思決定を必要とする複雑な行動の副産物として生じる主観的な体験であると考えられますが、主観的体験の有無について科学的に検証する手段は現時点ではありません。
そのうえで、岡ノ谷先生は心の研究はまだまだ始まったばかりであるため、ぜひ心の研究をしていってほしいと受講生たちにメッセージを送っています。
講義では、こちらの記事で紹介しきれなかった実験やエピソードが盛りだくさんです。興味のある方はぜひ講義動画をご覧ください!
https://youtu.be/s6CoZpZ85w0?si=iyHPgS6LfE2u1CkG
<文/RF(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:2021年度:高校生と大学生のための金曜特別講座 動物に心があるか 岡ノ谷一夫先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
2025/03/31
皆さんは、自分の言葉が、相手に意図しない意味で伝わってしまったことはないでしょうか?逆に、相手の言葉を、意図されてない意味で受け取ってしまったことはないでしょうか?
言葉を介するコミュニケーションの中で、私たちは日々このようなことを経験しています。
時には自分が考えていることですらわからないこともある中で、他者が何を考えているかを理解することは簡単ではありません。
では、私たちが言葉を通して相手を理解するにはどうすればよいでしょうか?
それには相手が意図的に送るメッセージだけでなく、言葉の周囲に埋め込まれたヒントにも目を配る必要があります。
今回は文学を専門とする阿部公彦先生が、言葉から相手を理解するための実践的で具体的な方法を、様々な題材を通じて解説していきます。
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 阿部公彦
「声」を聞くとはどういうことか?
声という言葉は、「読者の声」や「政府を非難する声」という場合のように主張や願いを指す意味でも使われます。
相手を理解しようとする、相手の「声」を聞くとはどういうことなのか考えてみましょう。
言葉の起源
言葉は、うなりのような音声、ジェスチャー、絵、から書き言葉まで、さまざまな形をとりながら今も変化し続けています。
しかし、あらゆる言葉的なものに共通しているのは、「媒体(メディア)」に乗って伝えられるということです。例えば、音声であれば音の信号に乗り、書き言葉であれば石や紙に乗って伝えられます。
つまり、相手の「声」を聞くというのは「媒体(メディア)」のかたちを捉えることとも言えるのです。
名作の声を聞く「らくがき式」
突然ですが、皆さんは「らくがき」と聞いて何を思い浮かべますか?もしかすると、あまりよくないイメージを持たれている方も多いかもしれません。
しかし、実はテキストへの「らくがき」こそが文章の声を聞くうえで有効な手段になりうるのです。では早速、「らくがき式」を実践してみましょう。
江戸川乱歩『怪人二十面相』
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 阿部公彦
まずはこちらをご覧ください。テキストにさまざまなツッコミが入っているのがわかります。
「らくがき式」ではこのように気になる箇所、特徴的な箇所に書き込みを入れることからスタートします。
一見難しく感じるかもしれませんが、「何度も繰り返される表現」や「わかりにくいところ」、「違和感を覚えるところ」を意識してみましょう。
実際にやってみると、今回は、・ですます調や「お」天気という表現などの、やけに丁寧な口調・毎日を「毎日毎日」、東京の町を「東京中の町という町」と表現するくどさ・「どんなに」や「誰ひとり」などの副詞を多用する力みなどの特徴が浮かび上がります。
次に、これらの特徴が読者にどのような印象を与えるかを考えてみましょう。
前提として本作品は、江戸川乱歩が初めて子ども向けに書いた作品であることを踏まえると、丁寧な口調は、大人が子どもに語り掛けるようなあたたかみを与えていると言えます。
よく考えてみると、子ども向けの作品ではですます調のような敬体で書かれることが一般的です。例えば、昔々あるところにおじいさんとおばあさんが「いた。」ではなく「おりました。」の方が聞き馴染みがあると思います。
敬体を使う理由は未だ結論付けられていないものの、優しく腰を低くすることで子どもを物語世界に誘い込みやすくしているのではないかと考えられます。(しかし、ある程度年齢があがると、逆にそのような文章では物足りなさを感じたり、嫌味に感じたりするようになります。)
そして、前のめりで力んでいる過剰な語りは、面倒くさくてしつこい、押し売りの気配を感じさせる一方で、語り手が善意にあふれた人なのではないか、とも感じ取ることができます。
それでは、このような印象は作品にどう作用しているでしょうか?
ご存知の方も多いかもしれませんが、本作は探偵小説です。物語では日常生活に犯罪という危機が訪れつつ、名探偵明智小五郎のおかげで元の日常に戻ります。
優しい文章が、このような危機的状況である非日常との間を行ったり来たりするストーリーに安心感を与えていると考えられます。
「らくがき式」の利点と狙い
先の例のように、「らくがき」は、言葉の細部に注目し兆候を可視化することに役立ちます。ここで重要なのは、それにより文章を意味のあるメッセージを伝えるものとしてだけでなく、いろいろな「声」が飛び交う場所だと認識できる点です。
文章には書き手の気分や情緒、精神状態が無意識のうちに現れることもあり、書き手が意図していない意味で伝わってしまうこともあります。例えば、単に忙しいときに簡単に送ったメッセージが、無愛想な印象で受け取られてしまったり…。
しかし、このような自分が想定していない解釈の仕方に気づくのは簡単なことではありません。
「らくがき式」は、多義性を存分に持つ文学作品を「読む」プロセスを自覚することや、自分の「読み」を他者に向けて表現することを通じて、多義性に対する感性を磨くよい練習になり得ます。
告辞の「声」を聞く
UTokyo Online Education 高校生と大学生のための金曜特別講座 2021 阿部公彦
今度はより身近な題材である告辞の「声」を聞いてみましょう。こちらは、2020年3月の東京大学学位授与式で当時の五神真総長が述べた告辞の冒頭部分です。
ぜひ実際に読んでみてください。皆さんはどのような印象を受けましたか?
赤字部分に目を向けてみると、「おめでとう」というスタンスが強調されていることがわかると思います。当たり前だと思われるかもしれませんが、よく考えてみると、お祝いの場であることがわかりきっている授与式で、祝いの言葉を繰り返す必要はないのではないか?という疑問が生まれます。
では、なぜ祝いの言葉を省略しないのでしょうか?
ここでポイントとなるのは、情報伝達を目的としない、「挨拶」という行為として言葉が発せられているという点です。
この告辞には、行為としてことばを発することで「私はあなたを祝っているよ」という私とあなたの関係性を樹立し構築する役割があります。この場を持ってさようならという訳ではなく、これからも関係性を続けていこうという意志が伝わります。
そして、挨拶を交わすことは決まり事や約束事の確認でもあります。互いの存在を社会化し、同じ社会にいる、社会という場を共有していることを認識させます。話し手と受け取り手が社会の中である共有された位置を占めていることが確認できるということです。
また、この時間と場を祝うことに費やしているのだと示すことで「今この時間はめでたいときなのである」という場の演出にもつながります。このように、言葉の「声」には情報伝達にとどまらない作用があります。それを意識してみると、普段目に触れる文章の受け取り方が変わるかもしれません。
まとめ
文章を読むとき、皆さんはまず「何」が書かれているかが気になるのではないかと思います。しかし、私たちは知らず知らずのうちに文章の「声」を読み、言葉の周囲にあるヒントを受け取っているのです。
この講義では実例を使いながら、文章の「声」がどのように表現されるか、そもそも文章の「声」を聞くとはどういうことか、を紐解きます。
自分が読みたいものを読むのではなく、相手から聞こえてくるものを読むという立場に立った時、これまで意識していなかった文章の新しい側面に気づくことができるかもしれません。
本記事はここで終わりになりますが、動画では他にも気になる例が紹介されています。約1時間の質疑応答タイムでも、多くの人からあがった質問に先生が丁寧に回答しています。続きが気になる方はぜひチェックしてみて下さい!
https://youtu.be/41Gw6VJXEdA?si=v4PGF7zOmxLJ0RIg
<文/RF(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:2021年度:高校生と大学生のための金曜特別講座 あなたはふだん文章の「声」を読んでいますか? 阿部公彦先生
さらに深く文学について学びたい方は、同センターで開発・開講されているオンライン講座『UTokyo MOOC』の「The Power of Words」を受講することをお勧めします。阿部先生が講師を務め、言葉がどのように力を持ちうるか(続けるか)を、日本文学と英文学に焦点を当てて探求していく講義となっています。こちらは無料で受講できるコンテンツです。
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
2025/03/12
教育とは、何のためにあるのでしょうか。より良い企業に就職して、より良い暮らしを手に入れるためでしょうか。それとも、社会で生きていくために必要な能力を養うためでしょうか。
私たちは、国の制度として義務教育を受けます。それにとどまらず、高等教育機関に進学し、さらなる教育を受ける人も多くなっています。
文部科学省の「大学等進学数に関するデータ」を参照すると、令和5年度の大学、短大、高専、専門学校を合わせた高等教育機関に進学する18歳人口の割合は83.8%だということがわかります。
文部科学省「参考資料集」令和5年9月25日 
このことは、単純に喜ばしいこととして受け取ってよいのでしょうか。
「教育」の意図やその内容というものは、時代や社会によって変化せざるを得ません。例えば、国全体が貧しい時代と、反対に豊かな時代では教育の目的や実際の効果も変わってくるように思います。
だとすると、多くの若者に教育の機会が開かれている現代においては、そうではなかった時代とはまた異なる問題が存在しているのではないでしょうか。
今回紹介する講義を担当するのは、当時東京大学大学院教育学研究科に所属し、現在はオックスフォード大学社会学科の教授をしていらっしゃる苅谷剛彦先生です。
先生は授業の冒頭で、「社会が成熟すればするほど、個人の成熟が難しくなる」と言いました。これは、いったいどういう意味なのでしょうか。
「福祉国家の変容」をキーワードに、読み解いていきましょう。
「経済ナショナリズム」と「福祉国家」
戦後から90年代ごろまでの時代は「経済ナショナリズム」の時代だった、と苅谷先生は言います。「ナショナリズム」とは、国家という共同体に対しての強い帰属意識や、それを標榜する運動のことです。
「経済ナショナリズム」という言葉は、そうしたナショナリズム的思想・運動と「経済」の状況が離れがたく結びついていたということを意味しています。
それはつまり、一国の経済の成長が、その国の人々に豊かさをもたらすという考え方です。単純化すれば、その国のGDPが増加すればするほど、国民はより幸せになれるということです。現代を生きる私たちからするとあまりにも楽観的に映るかもしれませんが、高度経済成長などの時代の流れに牽引され、人々や社会制度は無邪気にも「経済ナショナリズム」を前提としてきました。
「経済ナショナリズム」は、戦後の「福祉国家」という国家のあり方によって後押しされました。
「福祉国家」とは、第二次世界大戦後のイギリスでスローガンとなった「ゆりかごから墓場まで」という言葉に代表されるように、社会保障などの福祉政策を充実させることによって、国家の力で国民の一生を守っていこうとする、国家のあり方です。
そのような福祉国家的な福祉制度の拡充は、「教育」を対象としても行われました。
社会における「教育」の役割
福祉国家体制においては、人々の「平等」が尊重されます。例えば、完全雇用の実現を理想とはしつつも、そこから漏れてしまった人には、社会保障や公的扶助のような富の再配分によって救済する措置が取られるというような、「結果・機会の平等」です。
そうした中で教育は「平等と自由と個人の発達」を担う、極めて重要なものとみなされました。
そもそも教育とは、「子どもが大人になるための過程に関わる社会的な営み」だと、苅谷先生は言います。
子どもとは、「誰でもないが誰にでもなれる」存在です。そんな子どもを「誰か」にしていくのが、近代以降の「教育」なのです。
UTokyo Online Education 福祉国家の変容と「成熟」:大人になることの難しい社会と教育 Copyright 2006, 苅谷 剛彦
伝統社会では、多くの人々が社会的地位や階級によって生まれながらにして将来が決められていました。それに対して、近代社会では「誰にでもチャンスを与える」ことを目標とし、それに向けて「自己実現」の機会としての教育を拡大させていきました。
教育とは、子どもの「自己実現」を、社会の構成員である大人たちが手を取り合ってサポートする制度であるということです。
このように、経済ナショナリズムを実現しようとする福祉国家においては、経済・社会の成長・開発(development)と個人の成長・発達(development)は予定調和的に好循環を生み出していくという前提のもと、教育に力が注がれていきました。
グローバル化と「個人化」
しかし、90年代が近づくと、福祉国家も行き詰まりを見せるようになりました。同時に、経済ナショナリズムも限界を迎えることになります。「グローバル化」の時代が到来したのです。
人・モノ・情報が国境を越えた市場で行き交うようになり、世界中が過酷な経済競争に巻き込まれる中で、国家の方向性も変わっていきました。
人々は国家による規制の緩和を求め、国家も経済成長力を高めるための余念のない政策に切り替えていく必要が生じました。歳出の少ない国家運営が新たな目標とされ、効率化や、福祉予算の削減が行われました。
生涯の面倒を見ていた福祉国家から、「小さな政府」へと転換したのです。
こうした時代の変遷の中で、人々はもはや福祉の力に頼りきりになることは許されなくなりました。
苅谷先生は、こうした動きを「二重の個人化」と呼びます。「個人としての自立」が求められる一方で、そうした個人の行いが「自己責任」として受け取られ、以前のような救済を得ることが難しくなったということです。
そうした時代において教育は、どのように「個人化」の支援をしていくか、ということが問われることとなりました。
子どもの「自己実現」を手助けするという教育の理想は維持され、むしろますます強くなっていきます。「個性」や「自分らしさ」を獲得できなければ、社会を勝ち抜いていくことが難しくなってしまったからです。
このようにして、グローバル化の時代における進路指導は、「自己理解」をし、「自分らしさ」を発揮できる仕事に就き、「自己実現」できる進路を、「自分で選択」する、というように、新自由主義的な個人化の流れに則った形で、従来の教育の理想をむしろ徹底していく形で行われるようになりました。
「自己実現アノミー」と格差問題
こうした流れに押され、高等教育の進学率はますます伸びていきました。
しかし一方で現実には、教育の機会に恵まれているにもかかわらず、競争社会を勝ち抜くことのできなかった人々の存在がありました。
苅谷先生が紹介していたのは2006年当時のものですが、進学率と正比例するようにして、フリーター、若年無業者(いわゆる「ニート」)、非正規雇用者の割合は増加していました。厚生労働省の統計を調べてみると分かりますが、こうした「正規」の労働者から外れた人々の存在は、現在(2024年)に至るまで増加・維持傾向にあります。
過酷な競争や、「自己実現」をしなければならないという圧力に晒され、容赦無く勝者と敗者に振り分けられてしまうというこの状態を、先生は「自己実現アノミー」と呼びました。「アノミー」とは無秩序・無規律を意味する言葉です。
「自己実現」が理想的なゴールとして社会に広く共有されているのにもかかわらず、それを達成する手段や機会が十分に与えられていないことにより、「望ましい生き方」と「現実」との間にギャップが生まれてしまっているということです。
こうした状況は、「ワーキングプア」の問題のように、現在に至るまで継続しています。また、仮に「自己実現」のできる職業につけたとしても、「やりたい仕事」なのだから過重労働でも文句は言えないだろうという理由で長時間や低賃金の労働を強いられてしまう「やりがい搾取」の問題も見過ごせません。 
教育の機会が開かれたことや、教育が本来理想としていること自体は、喜ばしいことなのかもしれません。しかしそれがこのように、競争の激化や「自己実現」・「個性」を持たなければならないという圧力に変わって、若者を中心とする人々を苦しめている現状があります。そこには、教育だけでなく社会・経済を含む時代的な状況・構造があることを見過ごしてはなりません。
今回の講義は2006年に行われたものですが、それから20年近くが経過する現在、こうした社会と教育についての状況は、どのように変化したでしょうか。今改めて、考えてみる必要があるのではないでしょうか。
公開講座
こちらの講義は、2006年開講の東京大学公開講座「成熟」で行われました。
https://youtu.be/vmS9GZcl17k?si=yJ_8FS0Hre2DZFID
今回紹介しました苅谷先生の講義以外にも、戦後社会の福祉や経済の「成熟」にまつわる課題を扱ったものがありますので、併せてご覧になると参考になるかと思います。
東大TVでは過去の公開講座の模様を公開しておりますので、興味のある講義があればぜひご覧ください。
東京大学公開講座:東大TV Youtube再生リスト 
<文/中村匡希(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:東京大学公開講座「成熟」 福祉国家の変容と「成熟」:大人になることの難しい社会と教育 苅谷剛彦先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
2025/02/27
これまでの人生で、生き物を殺したという経験はありますか?おそらく、確信を持って「私は殺したことはない」と言い切れる人は少ないのではないかと思います。もし言い切れたとしても、誰かの手によって殺された生き物を生活の中で消費する限り、私たちは、間接的とはいえ動物の殺しに関わっているといえます。「殺し」は私たちが生きていく上で避けることのできない行為なのです。
しかし、だからといってそうした「殺し」を仕方がないこととして割り切れるわけではありません。生きていくためとはいえ、他の命を殺すという行為が避けられないことは、私たちに罪悪感をもたらすかもしれません。
人間の文化には、そうした罪悪感を処理するために、動物を「供養」するという営みがあります。まるで死んだ人間を弔うように、動物の中に「霊魂」のような存在を認め、それらを慰霊することによって、湧き上がる罪の意識と折り合いをつけてきたのです。
しかし、そうした動物の「供養」とは、人間にとって普遍的なものなのでしょうか。また、動物を人間のように供養しなければならないとする価値観は、疑いようもなく正しいものとして全体的に信頼してもいいのでしょうか。
今回紹介する講義は、東洋文化研究所で民俗学を研究されている、菅豊先生によるものです。民俗学の知見から、「供養」や「動物の殺し」をめぐる文化を、批判的な視点で捉え直してみましょう。
「供養」の文化
私たちの生活は、「殺す」ということを通じて成り立っています。「殺す」とは、生き物の生命を絶つということです。「生き物」や「生命」という言葉をどの範囲で定義づけするかは難しく、議論の分かれるところではありますが、少なくとも我々の生活がその「殺し」によって成立していることには同意していただけるのではないでしょうか。
しかし、私たちが皆一様に「殺し」を担っているわけではありません。多くの人々は「殺す」という行為を、それを担う一部の専門的な職業の人々に外部委託することによって「殺し」を意識せずとも生活を送ることができているのです。私たちの生活は、その維持に不可欠な「殺し」を直接的に担う他者に依存して成り立っているといえます。
例えば、動物を猟師や畜産家が殺し、魚介類を漁師が殺します。そうした人々は習慣化されているために一連の動作として躊躇なく「巧く」殺すことができます。とはいえ、そうした人々が、動物の死、そして自身がその死を招いたという事実に常に冷徹かつ冷静に向き合えるわけではありません。「殺し」の事実は、時として罪悪感や贖罪の意識をもたらします。
「供養の文化」は、そうした感情に巧く向き合うために生み出されました。人々は動物を、人間と同じような仕方で弔うことによって、その罪悪感を鎮めようとしました。つまり、動物を擬人化することが、殺してしまった命を供養するために必要とされたのです。
現代における「供養」の文化の広がり
こうした「供養の文化」やそれに近しい実践は、科学的な知見が溢れる現代社会においても、むしろ盛んになっていると菅先生は言います。
例えば動物のペットを弔うとき、私たちは人間と近しい方法で供養しますよね。それ以外にも、テレビの動物番組が動物に声をあて、まるで人間が話しているかのような「擬人化」を施しているものもみたことがあるのではないでしょうか。
このように、動物を人格的なものとして捉え、扱おうとする思考や習慣は、現代においても繰り返し現れています。
UTokyo Online Education 民俗学から考える動物の恵みと供養 Copyright 2014, 菅 豊
しかしここで、菅先生はその価値観に疑問を投げかけます。供養をするという行為には、その生き物を殺すことや生き物の死を否定的なものと捉える見方があり、それによって、どうにかしてその死を処理しなければならないと考える意識が生まれるのだと考えられます。
民俗学者の中村生雄は、それを「『負』の感情の正当化」と呼びました。私たちには、「殺し」や「死」によって生じる感情を何らかの解釈によって正当化し、合理化したいという意識があります。「供養の文化」とは、そのような要請に応えようとするものでした。
ですが、こうした価値観は、普遍的あるいは必然的、本質的なものなのでしょうか。例えば、別の文化圏に属する人々が動物を殺し、そしてそれに対する供養をしていないように見えたとき、私たちがそれを「罪深い」ことだとか、「野蛮」な行為だとして糾弾することは、正当化されるのでしょうか。
このように考えると、「供養の文化」とは異なる見方を想像する視点が生まれてきそうです。
「供儀」の文化
ここで菅先生は、新潟県村上市大川で見られる伝統的なサケ漁である「コド漁」にまつわるフィールドワークの例を出しながら説明をします。コド漁を巡る魅力的な民俗誌の詳細は講義内で豊富に語られますので、ぜひご覧ください。
重要なことは、「コド漁」に代表されるような文化体系において、対象である動物を殺すことは「罪」のような形で表現されてはいないということです。ここでは、サケ漁を取り巻く人間と動物の関わりを、エビス神・人間・鮭という三者の接触関係という形で説明するのです。
この神話的な語りにおいて、鮭が殺されることはエビス神に捧げられることを意味し、鮭の「本懐」でさえあると説明されます。こうした説明体系の中に位置付けられる人間は、あくまで神・動物・人間という三者関係のひとつのアクターに過ぎず、その中に、現代人が抱くような「殺すこと」や「死」に対する恐怖や罪の意識が存在している訳ではありません。
すると、「殺し」に対する負の感情も、「自然」と「人間」と「超自然(神)」からなる体系から、人間だけを切り離したときに抱く感覚なのではないか、と考えられます。
先ほども紹介しました民俗学者の中村生雄は、こうした文化を「供養の文化」と対比させて「供儀の文化」と呼びました。両者ははっきりと区別できるものではなく、文化の中で混じり合って見出されるものですが、動物を擬人化し弔うことで罪悪感を解消する「供養の文化」とは異なる、自然と真正面から向き合う文化の形も存在するのだ、と菅先生は言います。
殺すことは罪か?
「供儀の文化」を対比させて考えてみたときに、ますます加速する「供養の文化」とそれが浸透した社会とは、どのように考えることができるでしょうか。
例えば20世紀の後半から、「動物の権利」や「動物の福祉」といった言葉が使われるようになったことからも分かるように、動物を人格的に尊重しようとする風潮は強くなっています。そんな中で、現代人は「殺し」を負のものとし、「死」を忌み嫌うものとするまなざしを強化しているのではないか、と菅先生は警鐘を鳴らします。
ここで、菅先生は食肉処理の場面を提示します。食肉処理を行う人々は、生活において不可欠な「殺し」を担う役割を果たしているのにもかかわらず、市井の人々から「負」のまなざしで見つめられ、不当な差別を受けてきました。そのため、従来の屠場(食肉処理を行う場所)は、辺鄙な場所に建てられ、塀を高くすることで俗世間から切り離されてきました。
UTokyo Online Education 民俗学から考える動物の恵みと供養 Copyright 2014, 菅 豊
しかし、こうした眼差しは、食肉として処理される牛を「かわいそうだと考える心情」によって増幅されてきたのではないかと言います。殺される牛を擬人化し、そのことによって、牛を殺す屠場の人々を「かわいそうなことをする人」とみなす視点が、不可分なものとして結びついてしまうーーー「供養の文化」と紐ついた擬人化および贖罪の意識が、動物の「殺し」に携わる人々をあたかも罪人のように扱ってしまう危険性を孕んでいるのではないかというのです。
もちろん、動物を供養することによって救われたり、人格的に扱うことで通じ合ったりする人がたくさんいるであろうことは、言うまでもありません。しかし、「供養の文化」を一面的に肯定することは、動物を殺すことが人間を殺すことに準じる逃れ難き罪であり、負債であるという価値感をまるで当然のことのように受け入れてしまう危険性があり、そうした危うさを見過ごしてはならないのです。
https://youtu.be/ZKSm_YTMPOI?si=W2qcS9BpXee75Utq
公開講座
こちらの記事は、2014年開講の東京大学公開講座「恵み」で行われました。
東大TVでは過去の公開講座の模様を公開しておりますので、興味のある講義があればぜひご覧ください。東京大学公開講座:東大TV Youtube再生リスト 
また、菅先生の別の講義の記事がすでにだいふくちゃん通信の方で公開されていますので、ご興味があればぜひご覧ください。
<文/中村匡希(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:東京大学公開講座「恵み」 民俗学から考える動物の恵みと供養 菅豊先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
2025/01/17
 みなさんは生命をデザインする、と聞くとどのように感じますか。 「科学技術を使い、人間にとって都合のよい新たな種の生命を創りだす」というと心理的抵抗を感じる方もいるかもしれません。しかし研究の現場では、日々、様々な研究が行われており、遠くない未来において社会実装されるかもしれない数多くの研究が存在します。
 本記事では、そのような研究の一例として、植物と動物の境界をまたぐ研究、またその研究に付随して発生する倫理問題についての講演動画をご紹介いたします。
 こちらの動画は2022年秋季、「境界」というテーマで開催された東京大学公開講座にて登壇された生命科学研究系の松永幸大(まつながさちひろ)先生の講演動画です。
 松永先生は、動物の中に植物細胞を取り込み、植物的特性を利用した二次共生と呼ばれる細胞を持つ動物の例をもとに、人工的に植物細胞を持った動物細胞を創りだす研究をされています。かみ砕いた表現にすると、動物でありながら植物のように光合成をする生物を新たに創りだす、という研究です。
植物と動物を融合させる研究
 地球に生命が誕生したのは、40億年前になりますが、35億年前にはすでに光合成を行う生命が誕生していました。これはみなさんも聞いたことがあるかもしれませんが、最古の光合成生物であるシアノバクテリアの祖先です。それらを食べ、体内に取り込むことで様々な藻類がつくられ、植物が生まれていきました。
 ここで、植物と動物の分類の違いについて、確認しておきます。植物と動物の最も大きな違いは光合成をするかしないか、です。しかし、珊瑚や特定のウミウシは動物でありながら光合成を行います。これらの生物は体の中に藻類を取り込み、共生させることで光合成を行い養分を得ています。サンショウウオのように、脊椎動物の中にも体内に藻類を共生させる種類が存在します。
UTokyo Online Education 東京大学公開講座「境界」 2022 松永 幸大
 これらのような、動物でありながら藻類を体内に取り込み、光合成を行う動物を参照し、植物細胞を取り込んだ動物細胞を新たに創りだす研究が松永先生の研究チームにより行われています。動画内では「細胞融合」という、細胞の膜と膜の境界を融合させる方法をご説明されています。細胞融合を正常に機能させるためには、ただ細胞の膜と膜を融合させるだけではなく、それぞれのDNA(ゲノム)を融合させた、ハイブリッド染色体を創る必要があります。そうしなければ、生きた細胞として維持できません。これまでに多くの研究機関でこの細胞融合の研究がなされ、ゲノム操作による新たな生物が創りだされてきました。
 動画内では、トマトとジャガイモのハイブリッド種など、植物同士の近縁種を掛け合わせた農作物がいくつか例として提示されます。それらはあまり市場では成功しなかったようですが、それらのような前例を踏まえ、現在はより有用な遺伝子の形質を選択し、発現させる研究が行われています。
 このように、人間にとってより有用なものを新たに創造することが、科学技術の正当性を担保するものとして、研究の世界を支えています。
もし光合成ができるとどうなる? ーメリットとデメリット
 植物と動物が進化の過程で枝分かれしてから16億年が経ちました。植物と動物を融合させるという松永先生の研究は、地球上の生物の進化の歴史を遡り、生物が植物と動物に分岐する以前の状態に戻すこと、また16億年前に進化の過程で何が起きたのかを探る研究とも言えます。進化の過程を巡る研究は私たちに様々な示唆を与えてくれます。このような研究、技術開発が進むと、私たち人類もいつか光合成ができるようになるのでしょうか。それについては動画内で先生がお話されているので、ぜひ確認してみてください。
 こちらの記事内では、光合成が人間の皮膚上で、ある程度できるようになった場合に考えられる未来の可能性について少しご紹介しようと思います。動画内では、まず先生がいくつかのメリットについてご提案されています。人間が半分植物のように”進化”すれば、その分エネルギー消費量、二酸化炭素排出量も減るので、持続的社会の実現が可能になります。また、光照射によるエネルギー供給が可能になれば、コールドスリープも可能となります。まるでSF映画のように聞こえるかもしれませんが、人間の体を仮死状態にし、光によって最低限のエネルギーを供給することで、長期間の生命維持を可能にし、遠い惑星に進出できるようになるかもしれないということです。
UTokyo Online Education 東京大学公開講座「境界」 2022 松永 幸大
 しかし、研究者である松永先生は、新しい科学技術に対してメリットと同時にあらゆるデメリットも考慮するべきである、とお話されています。動画内では、ご自身の研究を例にデメリットについても提示されています。さらにこれらのメリット・デメリットについて、特に専門分野外のあらゆる人々と意見を交え、その効果の倫理的側面について考えていかなくてはいけない、と強調されます。ある科学技術が、本来の研究目的とは違った形で利用され最終的に大きな悲劇を招くことは、第二次世界大戦下のロバート・オッペンハイマーをはじめとする数多くの研究者たちの体験としてよく知られています。また、昨今の温暖化現象や、その他種々の社会問題を鑑みると、科学技術の恩恵が諸刃の剣であることは多くの人々が認識するところでしょう。環境問題は、科学技術そのものが問題ではなく、資本主義経済と結びついた結果であり科学自体に罪はない、と考える人もいるかもしれません。しかし、現在の多くの研究の現場では、企業のサポートに依っているところも少なくありません。また、近代から現代に至るまで、研究の世界全体で、有用性や有効性のある研究に資本が投入され、人材もそこに集中してきました。その結果、技術開発のスピードが社会的合意形成よりもはるかに上回り、社会に浸透、実装されてきたと言えるでしょう。松永先生がされているような、知的資産の蓄積を目的とした基礎研究はすぐに社会で応用されるわけではありませんが、段階を経ることで、その研究成果や知見を活かした応用技術が実際に社会実装されることもあります。
 研究者が自由に研究をするためには、その研究内容や成果について研究者自身が責任を持たなければなりません。松永先生のおっしゃる、「あらゆる分野の人々と対話し、考えること」は、1つの科学技術に対して、どのように使用、管理していくべきかをみなで考え、地球上の生物や環境を守り、維持していくことにあらゆる人々が関心を持つことに繋がっていきます。
 ”ある技術をどのように使用するか”、という問いはシンプルでありながら様々な問題を内包した問いであると言えるでしょう。
UTokyo Online Education 東京大学公開講座「境界」 2022 松永 幸大
生物種の謎
 ヒトとチンパンジーのDNAの違いはわずか1.2%しか違わないそうです。しかし、私たち人間とチンパンジーの違いとは、その約1%に集約されるのでしょうか。生物種とは一体何なのか、この問いに対する答えはまだ出ていません。松永先生が研究されている合成生物学という研究分野の目的は「新しい生物種を創りだすこと」であり、それは地球上に存在する”生物種とは何か”という深淵な問いを追求することに他なりません。研究の進捗によっては、数十年後に新しい生物種がいくつも創製されていることが予見されます。これまでにも人類は、長い年月をかけ人工的な交配によって新たな生物種を創りだしてきましたが、それらは近縁種による交配に限られていました。合成生物学は、全く違う種同士を組み合わせ、互いの有用な遺伝子のみを発現させる技術研究です。新しい研究分野であり、食糧不足などの現在の地球規模の社会問題を解決する糸口となるような可能性を秘めた分野でもあります。しかし、動画内で松永先生がご自身の研究で得られる成果のデメリットもご提示されたように、これまでの生物体系の概念を大きく覆すようなことが起きてくることも考えられます。みなさんもぜひこちらの動画をご覧いただき、生命科学研究における可能性、その正負、両側面からの思索を巡らせてみてください。
https://youtu.be/c8BuaswvJCc?si=eRVoqXxEjXQkxCZN
今回紹介した講義:第135回(2022年秋季)東京大学公開講座「境界」 植物と動物の融合から生じる研究と倫理の境界 松永 幸大先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
〈文/みの(東京大学学生サポーター)〉