2025/10/21
今年5月に公開され、大ヒットとなっている映画『国宝』。俳優の吉沢亮・横浜流星演じる歌舞伎役者の生涯を描いたもので、『藤娘』『鷺娘』『京鹿子娘道成寺』といった、女形を代表する演目が大きな見どころです。では、歌舞伎における女形はどのようにして誕生し、現代に至るまで成熟してきたのでしょうか。ここでは、人文社会系研究科の古井戸秀夫先生とともに、歌舞伎の歴史と成熟の過程を追いかけてみたいと思います。
歌舞伎の歴史
1603年、「出雲阿国」と呼ばれる女性が、京都の四条河原で踊ったのが歌舞伎の始まりだとされています。これは、徳川家康が征夷大将軍に任命されたのと同じ年です。歌舞伎は徳川幕府と一緒に誕生して以来、徳川幕府とともに成長し成熟してきたのです。
女性である出雲阿国は、男性に扮し、恋心を歌った歌に合わせて華麗に踊りました。
江戸では、観客は20000人から30000人ほど集まり、恋心に燃える熱気のなかで喧嘩も度々起こってしまいます。そこで、女性が舞台に立つことが禁止されることになります。
すると、女性に代わって美少年が舞台に立つようになりますが、観客がやはり激しく興奮するため、美少年も舞台に立つことを禁じられます。
女形は、このような歴史のなかで生まれてくるのです。このとき、出雲阿国の歌舞伎踊りから、すでに50年が経っていました。女形の誕生から成熟までにはさらに50年がかかり、元禄の時代になってようやく成熟していきます。
出雲阿国と歌舞伎踊り
後に「出雲阿国」と呼ばれる女性は、子供のときから芸能人。当初は「阿国」とだけ名乗り、「ややこ踊り」を踊っていました。「ややこ」とは小さい子供のことで、阿国はかわいらしい踊りを踊る少女スターだったと言えます。
彼女の存在が初めて記録に見えるのは、正親町天皇やその后、また彼らに仕える女官の前で、阿国と思しき人々がややこ踊りを踊った、というものです。
時は戦国、男性たちが皆戦っているなかで、戦に赴くことのない天皇や女性は不安を抱えていました。阿国たちのややこ踊りは、それを癒してくれるものだったと考えられます。
ややこ踊りは、たとえば、以下のような流行歌に合わせて踊られました。
身は浮草よ、根を定めなの君を待つ、去のやれ月の傾くに(私は身の定まらない浮草のような心境です。なぜかというと、あっちに行ったりこっちに行ったりして定まらない男のことを待っているから。日が暮れて、男が来るのを今か今かと待っている。でももうこんなに月が傾いているのに、あなたはまだ来ない)
おませな年頃の心を歌ったものです。しかし、踊っている少女たちは幼いため、意味はわからないまま踊っていたと思われます。
その後、戦乱が激しくなり、公家が京都の外へ逃げていくのに連動して、阿国も諸国を放浪しました。そして、阿国が再び京都に戻ってきたのが、家康が征夷大将軍になった1603年です。
その際、それまで「阿国」とだけ言っていた少女が、どういうわけか「出雲阿国」と名乗り始めます。それにより、出雲阿国は出雲大社の巫女だという噂が立つことになります。歴史学の分野ではすでに、出雲阿国は出雲大社の正式な巫女ではなかったことが検証されていますが、古井戸先生は「本人が出雲阿国と名乗ったということ、そういう噂が立ったということの方が大事」だと言います。
では、出雲阿国が出雲大社の巫女とされることは、どのような意味を持ったのでしょうか。
江戸時代になると、出雲大社と縁結びを関連づける信仰が生まれてきます。その信仰は、神々によってどのように縁結びが行われるか?という説話をも生み出します。日本では、十月は八百万の神が出雲大社に集まるとされています。江戸時代の庶民は、そのときに神々が何をしているかを考えました。そして、ある国から来た神様と、別の国から来た神様が、赤い紐を持って人々を紹介し合うことで、紹介された者同士が結ばれると考えられるようになりました。いわゆる「赤い紐伝説」です。
「出雲阿国は、女でありながら男に変装して女の心をチャームする。あるいは、本来の女の姿で荒くれた男の心をチャームする。このように、男と女を結びつける縁結びの神として、彼女は舞台に出てきたのではないか。」と古井戸先生は考察されています。
女形の技術
女形では、男性が若い女性の役を演じます。十代や二十代の若い男性が演じることもありますが、八十代の男性が演じることもあります。そのため、大人の男性が十代の華奢な女性に変身する技術が必要とされました。
たとえば、バレエでは体の線を直接見せることが重視されている一方で、歌舞伎では衣装で体のラインを隠すことで綺麗に見せるという方法を用います。そのため、貝殻骨(肩甲骨)を背中の中心に寄せたり、衣装を着た時の体のラインが柳のように見えるようにしたり、という訓練をします。
また、腰については貝殻骨のように動かすことができないため、観客の錯覚を利用しています。具体的には、両膝をくっつけて、両足をハの字にして歩くことで、華奢な女性を表現します。
このようなさまざまな技術は、はつらつと登場してきた出雲阿国による踊りが、長い時間をかけて、二十代の男性でも八十代の男性でも演じることのできるような成熟した女形の世界を形作っていったことの証なのです。
今回の記事では紹介しきれませんでしたが、講義動画では、ほかにも女形が成熟していく詳細な歴史についても説明されています。気になった方は、ぜひ講義動画をご覧ください!
https://youtu.be/80Z2xi0WMsE
〈文/長谷川凜(東京大学学生サポーター)〉
今回紹介した講義:東京大学公開講座「成熟」 歌舞伎ー女形の成熟 古井戸秀夫先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。
歌舞伎の歴史
1603年、「出雲阿国」と呼ばれる女性が、京都の四条河原で踊ったのが歌舞伎の始まりだとされています。これは、徳川家康が征夷大将軍に任命されたのと同じ年です。歌舞伎は徳川幕府と一緒に誕生して以来、徳川幕府とともに成長し成熟してきたのです。
女性である出雲阿国は、男性に扮し、恋心を歌った歌に合わせて華麗に踊りました。
江戸では、観客は20000人から30000人ほど集まり、恋心に燃える熱気のなかで喧嘩も度々起こってしまいます。そこで、女性が舞台に立つことが禁止されることになります。
すると、女性に代わって美少年が舞台に立つようになりますが、観客がやはり激しく興奮するため、美少年も舞台に立つことを禁じられます。
女形は、このような歴史のなかで生まれてくるのです。このとき、出雲阿国の歌舞伎踊りから、すでに50年が経っていました。女形の誕生から成熟までにはさらに50年がかかり、元禄の時代になってようやく成熟していきます。
出雲阿国と歌舞伎踊り
後に「出雲阿国」と呼ばれる女性は、子供のときから芸能人。当初は「阿国」とだけ名乗り、「ややこ踊り」を踊っていました。「ややこ」とは小さい子供のことで、阿国はかわいらしい踊りを踊る少女スターだったと言えます。
彼女の存在が初めて記録に見えるのは、正親町天皇やその后、また彼らに仕える女官の前で、阿国と思しき人々がややこ踊りを踊った、というものです。
時は戦国、男性たちが皆戦っているなかで、戦に赴くことのない天皇や女性は不安を抱えていました。阿国たちのややこ踊りは、それを癒してくれるものだったと考えられます。
ややこ踊りは、たとえば、以下のような流行歌に合わせて踊られました。
身は浮草よ、根を定めなの君を待つ、去のやれ月の傾くに(私は身の定まらない浮草のような心境です。なぜかというと、あっちに行ったりこっちに行ったりして定まらない男のことを待っているから。日が暮れて、男が来るのを今か今かと待っている。でももうこんなに月が傾いているのに、あなたはまだ来ない)
おませな年頃の心を歌ったものです。しかし、踊っている少女たちは幼いため、意味はわからないまま踊っていたと思われます。
その後、戦乱が激しくなり、公家が京都の外へ逃げていくのに連動して、阿国も諸国を放浪しました。そして、阿国が再び京都に戻ってきたのが、家康が征夷大将軍になった1603年です。
その際、それまで「阿国」とだけ言っていた少女が、どういうわけか「出雲阿国」と名乗り始めます。それにより、出雲阿国は出雲大社の巫女だという噂が立つことになります。歴史学の分野ではすでに、出雲阿国は出雲大社の正式な巫女ではなかったことが検証されていますが、古井戸先生は「本人が出雲阿国と名乗ったということ、そういう噂が立ったということの方が大事」だと言います。
では、出雲阿国が出雲大社の巫女とされることは、どのような意味を持ったのでしょうか。
江戸時代になると、出雲大社と縁結びを関連づける信仰が生まれてきます。その信仰は、神々によってどのように縁結びが行われるか?という説話をも生み出します。日本では、十月は八百万の神が出雲大社に集まるとされています。江戸時代の庶民は、そのときに神々が何をしているかを考えました。そして、ある国から来た神様と、別の国から来た神様が、赤い紐を持って人々を紹介し合うことで、紹介された者同士が結ばれると考えられるようになりました。いわゆる「赤い紐伝説」です。
「出雲阿国は、女でありながら男に変装して女の心をチャームする。あるいは、本来の女の姿で荒くれた男の心をチャームする。このように、男と女を結びつける縁結びの神として、彼女は舞台に出てきたのではないか。」と古井戸先生は考察されています。
女形の技術
女形では、男性が若い女性の役を演じます。十代や二十代の若い男性が演じることもありますが、八十代の男性が演じることもあります。そのため、大人の男性が十代の華奢な女性に変身する技術が必要とされました。
たとえば、バレエでは体の線を直接見せることが重視されている一方で、歌舞伎では衣装で体のラインを隠すことで綺麗に見せるという方法を用います。そのため、貝殻骨(肩甲骨)を背中の中心に寄せたり、衣装を着た時の体のラインが柳のように見えるようにしたり、という訓練をします。
また、腰については貝殻骨のように動かすことができないため、観客の錯覚を利用しています。具体的には、両膝をくっつけて、両足をハの字にして歩くことで、華奢な女性を表現します。
このようなさまざまな技術は、はつらつと登場してきた出雲阿国による踊りが、長い時間をかけて、二十代の男性でも八十代の男性でも演じることのできるような成熟した女形の世界を形作っていったことの証なのです。
今回の記事では紹介しきれませんでしたが、講義動画では、ほかにも女形が成熟していく詳細な歴史についても説明されています。気になった方は、ぜひ講義動画をご覧ください!
https://youtu.be/80Z2xi0WMsE
〈文/長谷川凜(東京大学学生サポーター)〉
今回紹介した講義:東京大学公開講座「成熟」 歌舞伎ー女形の成熟 古井戸秀夫先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。