「文系ですか?理系ですか?」
大学受験や進路選択のとき、一度は問われたことのあるこの問い。ですが、そもそも私たちが当たり前のように使っている「文系」「理系」という言葉、その区別はどのように生まれたのでしょうか?
今回ご紹介するのは、2022年秋に開催された東京大学公開講座「自然科学と人文社会科学の境界」です。科学技術史の専門家・隠岐さや香先生が、私たちが“文理”と呼んでいるものの背後にある歴史や思想、制度の変遷を解説しています。
本記事では講義内容をもとに、学問の境界線がどのようにして形づくられてきたのかを、歴史的な視点から一緒にたどってみたいと思います。
文系・理系の「線」はいつ、どこから?
まず、そもそも「文系」「理系」という言い方はどこから来たのか。隠岐先生によると、これは漢語からきた表現で、日本や東アジアでは当たり前のように使われていますが、国際的には「自然科学(Natural Sciences)」と「人文社会科学(Humanities and Social Sciences)」という言い方が主流です。
なぜ学問の世界にはこのような“境界”が生まれたのでしょうか。その歴史をたどっていくと、西洋哲学の中にそのルーツを見ることができます。西洋の哲学は、知を分類し続けるという伝統を持っていて、そこに「自然と人間」「実学と非実学」といった対立軸が現れてきました。日本をはじめとする東アジアでは、近代化の過程でその伝統を受け入れてきた背景があります。また、学校での科目編成など教育・研究制度上、境界が必要とされてきたという背景もあります。
この2つの観点から、境界線が引かれてきた背景を近代から見てみましょう。
哲学的分類と制度的分類の乖離
17~18世紀のヨーロッパでは、実は哲学的な分類と大学のあり方、制度的な分類がかけ離れた状態にありました。
まずは、当時の人々が学問の分類についてどう考えていたのか、18世紀の『百科全書』を例に見てみましょう。この百科全書には、「知の体系図」と呼ばれる、学問を網羅的に分類した図が掲載されています。
そのもとになったのは、フランシス・ベーコンの考え方です。ベーコンは、人間の能力を「記憶」「想像力」「理性」の3つに分け、それぞれに対応する学問を「歴史」「詩学(=文学や芸術)」「哲学」と位置づけました。ディドロとダランベールはこの分類を受け継ぎ、百科全書の中でさまざまな学問を整理し、「知の体系図」として可視化しました。
上の画像を見てください。この分類の特徴は、ほとんどの学問が哲学の下に分類されていることです。そして、哲学の下で、道徳や法学を含む「人間の学」と数学などの「自然の学」が明確に分けられています。前者がのちの社会科学、後者がのちの自然科学として発展していくというのが歴史的経緯です。
では、学問を学ぶ場である大学ではどのように分けていたのでしょうか?
実は当時の大学には今のような文理の構造はなく、実学(役に立つ学問)と非実学(すぐには役に立たない学問)という分け方のほうが重視されていました。高度な専門的知識、実学を学ぶ上級学部とその準備のため非実学を学ぶ下級学部に分かれ、当時発展しつつあった人文科学や自然科学は下級学部で学ばれていました。
近代的教育制度と近代哲学における学問分類
ところが18世紀末、フランス革命が起きると、ヨーロッパ各地で社会構造が大きく変わります。まずは舞台の中心となったフランス。1793年には旧体制と結びついていた大学が一度すべて廃止され、かわって登場したのがエコール・ポリテクニーク。ここでは実務的な教育、特に技術者や医師の育成が重視されました。
そして革命が穏健化すると、大学に近い制度が復活し、「理科ファキュルテ」がつくられました。これは今までにない理系の学者を育てる学部で、新しい取り組みでした。
そして、革命後一段落したナポレオン時代には、進歩し続ける科学と過去の素晴らしさを伝える文芸、という少し乱暴な二元論的学問観がうまれました。しかしここでは政治や経済といった社会科学は抑圧されていたことに注意が必要です。
一方、ドイツ(当時はドイツ語圏諸地域)は、フランスとは異なる道を歩みます。19世紀前半の教育改革では、実学/非実学で分ける古くからの大学制度を残しつつ、哲学を中心に据えた学問体系を維持。自然科学や数学、文献学、歴史といった新たな分野を取り込んでいくことで、教養教育の土台を築いていきました。この「知の統一性」を重視する姿勢は、今日の「総合大学」にも通じる理念といえます。
区別される哲学者と科学者、生まれる境界線
興味深いのは、「科学者(scientist)」という言葉が生まれたのが、実はかなり遅く、19世紀に入ってからという点です。それまで自然科学を研究していた人々は、自らを「哲学者」と呼んでいたのです。
こうした流れの中で、哲学と自然科学が次第に分かれていきました。ドイツの哲学者カントはこの分離を明確に意識した人物の一人であり、その後、ドイツの大学でも理系の専門教育が制度化されていきました。
また、文系・理系という枠組みが定着するにつれ、それぞれの分野に「異なる価値」や「役割」が与えられるようになります。19世紀末には、ディルタイのような思想家が「自然科学は因果を説明するもの」「精神科学は意味を理解するもの」といった対比を提案し、学問の“住み分け”が進みました。
この時代には他にも様々な哲学的分類が試みられ、二項対立の構造がいくつか生まれていました。隠岐先生によれば、学問を二つに分類すると相反していく傾向があり、どの分類にもその相反するものをどう整理するかという葛藤が表れています。
20世紀の大学における主な学問分類
そして20世紀以降の大学では、皆さんがご存知の通り、下記の画像のように分類されています。
文化輸入としての学問分類(日本の場合)
では、日本ではどうだったのでしょうか。日本の学問体系もまた、西洋の枠組みを受け入れるかたちで近代化してきました。明治時代には漢学・国学・洋学という言語ごとに三つの流れがあり、西洋の学問を取り入れた洋学派が主導して、東京大学の前身となる組織がつくられます。
そして1877年に法・理・文・医という学部構成で東京大学が設立され、1886年に帝国大学と名前を変え、法・文・理・医・工からなる総合大学の形に定着しました。特徴的なのは、欧米に先駆けて「工学部」が大学に組み込まれたこと。当時のヨーロッパでは、ものづくりは大学の対象ではなく、工学は大学教育の枠外にあったのです。
また、1918年には高等学校の時点で「文科」「理科」の分離が始まりました。これは世界的に見ても非常に早い段階です。こうした背景があって、日本では文理の境界が非常に強く意識されるようになりました。隠岐先生は、日本の教育には「実学重視」「理工系偏重」の傾向が強く、異分野との連携が生まれにくい構造があると指摘しています。
分かれているからこそ、つながる可能性がある
しかし、現代社会が抱える課題は、特定の分野だけで解決できるものではありません。隠岐先生は、「社会課題に向き合うときには、文理の境界は薄くなる」と語ります。そしてむしろ今後は、「実学か非実学か」という基準が新たな境界として浮上してくる可能性があるとも。
人間社会には、常に何かしらの「分かれ目」が存在します。しかし、分かれているからこそ、その間をつなぐ試みが生まれます。違いを認め合い、そこから新しい価値を創出していくこと。境界を設けることは、それを“超える”契機でもあるのです。
<文/RF(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:第135回(2022年秋季)東京大学公開講座「境界」 自然科学と人文社会科学の境界 隠岐さや香先生
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