「中央ユーラシア」から見る新しい世界史
2024/10/18

皆さんは、学生時代に「世界史」を勉強しましたか?
「世界史」を学んだ方は、例えばこんな印象を抱いたことはないでしょうか?「◯世でしか区別できない、同じ名前の王が大量に出てくるヨーロッパ史」、「漢字だらけの中国史」、「とにかく情報量が多すぎる近代史」などなど……。特に私たちが高校までに勉強してきたような「世界史」というと、幅広い地域に関する多くの知識をとりあえず覚えるという、暗記科目というイメージが強く残っているかもしれません。
ともすれば大国ばかり注目されがちな世界史。ここで、例えばヨーロッパ、中国といった枠組みを取り払って、全く新しい見方で世界史を理解できるとしたら、世界史に対するイメージが大きく変わるかもしれません。
今回は、歴史学者である杉山 清彦(すぎやま きよひこ)先生の講義「世界史を中央ユーラシアから見る」から、世界史を捉える新しい枠組みを見ていきましょう。

「中央ユーラシア」という枠組み

「中央ユーラシア」という概念を理解するに当たり、一つ具体例を考えてみましょう。
例えば、2021年にアメリカ軍が撤退し、タリバン政権が復権したことで話題となったアフガニスタンという国があります。このアフガニスタン、一体「何アジア」に分類されるのでしょうか。
西アジア、南アジア、中央アジア、いくつか考え方がありますが、分類する際の指標・基準は何でしょうか?当事者であるアフガニスタンの人々は一体どのように考えているのでしょうか?

アフガニスタンの地理的特徴についてもう少し見ていきましょう。
アフガニスタンの真ん中にはヒンドゥークシュ山脈の延長が横たわっており、人々はそれを取り巻くように居住しています。南側にかけては、国境を跨ってパシュテューン人という民族の世界が広がっていますが、西はイランと繋がっており、北はウズベキスタン、タジキスタンと民族的にも繋がっています。加えて、ヒンドゥークシュ山脈より南側はそのままパキスタンやインドに繋がっており、南アジア的なところとも言えるかもしれません。

UTokyo Online Education 世界史を中央ユーラシアから見る Copyright 2021, 杉山清彦

便宜上、アフガニスタンは現在西アジアに分類されていますが、排他的に「西アジア」と分類してしまうことでこうした側面が抜け落ちてしまいます。そしてユーラシア大陸には、こうした複雑な背景を持つ地域が至る所にあるのです。

ところで、西アジア、南アジア、中央アジアという分類は、(当たり前に思われるかもしれませんが)少なくともヨーロッパではない、ということを意味します。しかし、果たしてそれも本当なのでしょうか。
一般的には、ダーダネルス・ボスパラス海峡とウラル山脈の間がヨーロッパとの境目であるとよく言われます。しかし、そこを越えたからといって、ガラッと人の生活習慣が変わるわけではありません。
また、アジア内における分類も便宜的なものです。重なっていたり、時期によって変化したりすることもあります。例えば、エジプトはどう考えてもアラブの大国なのに、アジアという分類には入りませんね。これは現在の政治経済の分野においては当然のことかもしれませんが、人文学の分野においては、この整理をそのまま過去に当てはめてもいいのか?という問題が出てきます。
杉山先生は、こうした理解を「各国史」的理解とあえて批判的に呼んでいます。

世界史の「各国史」的理解

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「各国史」的理解とは、世界史を個別の歴史の総和として捉える、世界史は各国史に分解できるという整理の方法です。さらにその各国史は、国民国家の枠組みで把握することになります。
したがって、杉山先生が例を挙げているように、ベトナム史という概念は存在しますが、チャンパー史というものは想定されていませんし、チベット史というものを真っ先に考える人は残念ながらいないでしょう。
しかし、ここまでお読みいただいた方は、そうした歴史的理解は本当に人類の営みの歴史をカバーできるのか?という問題があることにお気づきになるかもしれません。
 また、「各国史」的理解にさらに時間の経過が組み込まれると、歴史を中国やヨーロッパなど主だった国や地域の動きの足し算で捉えようとする「試験管型」の世界史となります。こうした考え方は、まさにそれぞれの試験管の中で反応が進んでいるのを見ているようなイメージで、お互いの影響はあまり重視しません。

こうした「各国史」的理解の問題点について、杉山先生は主に3つの観点から整理されています。
まず、それぞれの歴史の捉え方が孤立的・単線的なものになってしまいます。また、こうした理解において前提とされる「国境」の概念が前近代では存在しなかったり、現在とは違うものであったり、はたまた国境が頻繁に変わっていたり、という状態が常でした。そして、こうした理解においては、国家同士のお互いの影響が低く見積もられる傾向にあります。

2つ目に、現代における「国家」という枠組みで過去を分断・選択してしまうことで、その枠組みに当てはまらない地域を無視してしまうことになります(杉山先生はこれを反歴史性・超歴史性という言葉で表しています)。

3つ目に、ある地理空間においては、必ずしも住民の話す言葉や文化、信仰、習慣が揃っているわけではなく、その中に別の小集団があったり、その地理空間自体が隣国と重なっていたりすることもあります。「各国史」的理解は、そこを無視することにつながるのです。

一方、ここ最近は、「地域」という言葉を柔軟に使って世界を切り取るというのが共通の理解になってきています。これはある地域について、横の時間軸から可変的・重層的に捉え、地域や社会の住民たちの固有性や自律性を歴史の中に見出していこう、という考え方です。

前近代においては、西のヨーロッパ文明と東の中国文明を軸にした東西交渉史観と呼ばれる歴史観が主流でした。それに対して、近代以前の人類史の大部分を占めてきたユーラシア大陸の人類の活動に焦点を当て、ユーラシア大陸の端の方にヨーロッパや中国といった地域が存在している、という最も広い地域設定をしたのが、中央ユーラシアという考え方です。

UTokyo Online Education 世界史を中央ユーラシアから見る Copyright 2021, 杉山清彦

つまり、中央ユーラシアというのは、ユーラシア大陸の真ん中の部分をピンポイントで抜き取ったものではなく、周りの地域を剥ぎ取った後の残りの地域全部という、広大な概念なのですね。
これは、日本では内陸アジア、内奥アジアと言われてきた概念とも近いものですが、ユーラシアEuro+Asiaという名の通り、ヨーロッパとアジアを分けない概念であるということを強調するために用いられています。

北の遊牧民族と南のオアシス民

杉山先生の作成した図を見ると、ユーラシア大陸の地理的構造がわかります。例えば北の方を見ると、東欧は東方から続く草原地帯の延長です。ここはもちろんキリスト教圏であり、ラテン文字やキリル文字が使われていますが、エリアとしては遊牧世界の延長ですね。

UTokyo Online Education 世界史を中央ユーラシアから見る Copyright 2021, 杉山清彦

北方に住む遊牧民と南方に住むオアシス民は、基本的には互恵関係にありました。遊牧民は農産物、武器、金属器などをオアシス民との交易により手に入れる一方、砂漠の中で孤立していたオアシス民は、遊牧民たちに対してみかじめ料を払うことで用心棒になってもらっていたのです。そして、軍事力のある騎馬民族が政治的な動きの中心を成しながら、オアシス民がキャラバン貿易で交通・国際商業を担うという体制が揃った時、モンゴル帝国のような強力な遊牧国家が現れたのですね。

このように、中央ユーラシア世界は家畜を財産とする遊牧民の世界と、住めるところに集中して住む農村都市のオアシス民の世界の相互関係をコアとし、その外側の世界と重なり合う周縁部を持つ巨大な二重構造を持っています。さらに、その周縁部は東アジア西北部、南アジア西北部、西アジア東北部・東ヨーロッパ東部と重なり合っており、こうした地域は、人やモノの接触が頻繁に生じ、王朝の興亡が頻繁に起きるなど、歴史の焦点となってきたのです。

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このように、歴史の展開において非常に大きな役割を果たしてきたにも関わらず、彼らはなぜここまで影が薄くなってしまったのでしょうか?
その要因として、ヨーロッパで産業革命や軍事革命が起こり、陸上交通と騎馬軍事力の時代から海上交通と火器の時代に、そして家畜から化石燃料の時代に変わったこと、加えて、前近代においては足手纏いだとされてきた人口そのものが国力となる時代が到来したことが挙げられます。こうなると、人口が多い農耕社会が、動きは遅いが国力があるということになり、それまでは少数精鋭が売りだった遊牧民は強みが弱みになってしまったことで、少数民族扱いを受けるようになっていったのです。
それまでは中央ユーラシアが独自のまとまりと自律性を持ち、東ヨーロッパの外周に影響を与えていました。外部の意思や力によって左右されていくようになったのは、つい最近の話なのですね。

紀元前から現在に至るまでの歴史を「中央ユーラシア」という新たな視点で捉え直すことは、農耕に立脚してきた日本列島の常識や価値観を相対化し、遊牧民をはじめとする異なる民族の価値観で社会を理解することに繋がります。

ところで、草原の遊牧社会は、現在でも普通に営まれています。例えばモンゴルでは、人口の半分以上は首都のウランバートルに住んでいるものの、それ以外の地域では遊牧民が広く点在し、昔ながらの遊牧生活を送っています。モンゴル人にはどうも自然と「遊牧したい」という感覚があるようで、休暇の時期になると都市を出て、田舎にある実家や知り合いの家まで遊牧をしに帰ってしまいます。彼らからすれば、わざわざ狭い空間に自分たちを閉じ込めて生活している我々のような定住民の文化というのは、奇妙に思われるのかもしれません。
自分の住んでいる地を飛び出して、異なる文化や価値観に触れることは、その地の歴史の理解だけでなく、自分と世界の関係を改めて問い直すことを可能にしてくれるでしょう。

<文/R.H.(東京大学学生サポーター)>

今回紹介した講義:世界史を中央ユーラシアから見る 杉山清彦先生

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