みなさんは、人を騙したことはありますか?
突然答えにくい質問をしてしまいすみません。なかなか「あります」とは答えにくいと思います。私も即答されたらびっくりします。
では、質問を変えてみます。
自分の語ったことが、意図とは異なった形で受け取られたことはありますか?
この質問なら、ほとんどの人が「ある」と答えるのではないでしょうか。他者とコミュニケーションを取る上で、すれ違いが発生するのは誰にでもあることだと思います。
私たちは普段、こうした「すれ違い」をできる限り無くそうと努力します。反対に、進んでこの「すれ違い」を起こそうとする人がいれば、それは相手を「騙す」という行為であり、不道徳な行いだと言えるでしょう。
しかし、日常の何気ない会話の中で誤解が生じることと、故意に人を騙すことは、単純に区別して考えることができるのでしょうか。
例えば、「騙すつもりはなかったのに…」と、自分の発言を後悔するとき、その後相手の誤解を解くことに成功すれば、それは「正しい」コミュニケーションへと戻っていくのかもしれませんが、もしそうした機会が訪れなければ、相手はその後もずっと「騙された」と思い続けることでしょう。そのとき、私に騙そうとする意志があったかどうかは関係なく、「騙した」私と「騙された」相手という関係が生まれてしまいます。
「かたる」という言葉には、「語る」だけでなく「騙る」という表記も存在します。「騙る」とは、そのまま「だます」ということを意味します。
もし、「語ること」と「騙ること」を簡単に切り分けることができないのならば、それは「悪」として一方的に断罪してしまってもよいのでしょうか。
今回紹介するのは、人文社会系研究科で中国思想史を専門としている小島毅(こじまつよし)先生が、2011年の駒場祭公開講座にて行った授業です。
「かたる」という行為の両面的な性格を明らかにし、私たちが行っている普段の会話から歴史認識に至るまでの、人々の営みを紐解いていきましょう。
思うことと語ること
人間の、他の動物とは異なる特徴とはなんでしょうか?
哲学者のデカルトは「我思う、ゆえに我あり」という言葉を残しています。「思う」「考える」という行為を、人間にとって第一次的なものと考えたということです。「理性(ロゴス)」を人間の唯一のものとみなす考え方です。
ただ、私たちはそれと同時に、考えたことを他の誰かに伝えようとします。デカルトも、自身の著作を残すことによって、「我思う、ゆえに我あり」という言葉を伝えました。そうしていなければ、どれだけ偉大な思想を作り上げても誰にも知られることはなかったのです。
つまり、私たちは「考える動物」でありながら、それと同じかそれ以上に、「語る動物」でもあるということです。
別の哲学者ですが、アリストテレスは人間を「社会的(ポリス的)動物」であると考えました。アリストテレスにとっての人間とは、「考える」こと以上に、それを誰かに「語る」ことにおいて、特徴づけられる動物だったということです。
小島先生の専門は中国思想ですが、そもそも古代中国において、「人間」という言葉は文字通り「人」の「間」、つまり社会そのものを意味していました。私たちは他の誰かと関係を持つことによって、「人間」として存在しているということです。私たちの社会や歴史は、単に自分一人で考えるだけでなく、それを他の人々との関係の中で、語り語られることによって作られているのです。
「語り」=「騙り」?
私たちは考えると同時に、それを人に伝えようとします。そのとき、私たちの頭の中にあることを、そのまま相手に届けることはできません。なので、私たちはそれをどうにか言葉にして伝えようとします。
頭の中に漠然とだけあることは、相手に説明しようとする中で、初めてはっきりとした形になって表現されます。自分でもはっきりとは分かっていなかったことを、誰かに伝えたり、文章にしたりすることによって、きちんと整理することができたという経験はあると思います。
このようにして人に「語る」とき、つまり、相手が理解できるように話を作り上げて語るとき、私たちは、それによって自分自身も納得できるようなストーリーを作り上げているのです。
相手に対して見栄を張ったり、自分の正しさを裏付けようとしたり、ということだけでなく、自分にとってもそのように説明した方が理解しやすい、都合がいいという理由で、私は無自覚に、自分と相手を騙しているのではないか。
「語り」という行為の中には、もうひとつの「かたり」、すなわち「騙り」が、必然的に織り込まれてしまっているのではないか、そう小島先生は言うのです。
「語り」と「騙り」、このふたつのままならない関係について、小島先生の紹介する2つの具体的なエピソードを参考にしながら考えてみましょう。
エピソード1:『日本政記』と天皇の起源の「かたり」
江戸時代末期に、頼山陽(らいさんよう)という歴史家がいました。漢詩や儒学にも親しみ、『日本政記』『日本外史』といった歴史書を編纂しています。
これらの歴史書における頼山陽の語り方には、「騙り」にまつわる問題が含まれています。
まず、日本の天皇制についての『日本政記』の記述からです。
『日本政記』には、720年に完成した『日本書紀』の記述を参考にして「辛酉、春正月庚辰朔」に、初めての天皇である神武天皇が即位したということが書かれてあります。「辛酉、春正月庚辰朔」とは、計算すれば紀元前660年に当たるので、この記述は、神武天皇が紀元前660年に即位した、ということを示していることになります。
しかし、紀元前660年の段階では、日本ではそもそも中国大陸や朝鮮半島のことすらも知られておらず、したがって文字も暦も伝わっていませんでした。それなのに、どうしてこの年に神武天皇が存在し、即位したと記述できるのでしょうか。また、「春正月朔(旧暦の一月一日)」に王が即位するということ自体、紀元前二世紀に成立した「春秋学」と呼ばれる儒教の教説を踏まえて考えられたものだというのです。
以上のことから分かるように、こうした日本の起源についての「語り」は、後世の、おそらく日本書紀が作られた当時に生み出された「騙り」です。歴史学においても、神武天皇はおそらく架空の人物なのではないかと言われています。
しかし、この神武天皇の即位、すなわち日本建国についての「騙り」は、例えば「建国記念の日」のような形で、現在も法律によって認定されています。建国記念の日である二月十一日は、「春正月朔」に当たる旧暦の一月一日を、明治時代にグレゴリオ暦に変換し定めたものです。
では、なぜこうした「騙り」が必要とされたのでしょうか?
小島先生の説明によると、こうした「騙り」は、単に「悪い権力者が善良な民衆を欺くための語り」というわけではないのだそうです。日本書紀が作られた奈良時代の民衆にとって、「天皇」という存在はいてもいなくても変わらないような生活に無関係なものであって、こうした「語り」を必要としたのは、国際的な関係の中で、自分たちの国の正統性を認めさせることを欲した、一部の権力者だけでした。
対外的な緊張の中で、自らの国が置かれている立場を確かなものにするために用いられた「語り」が、結果的に日本の起源にまつわる「騙り」として、現在に至るまでに残っている。このことには、単に「かたり」が嘘だから悪いとか、本当のことを言えば正しいなどでは解消することのできない事情があるように思われます。
エピソード2:『日本外史』と徳川将軍家の「かたり」
続いては、『日本外史』に収められている、徳川家光・忠長兄弟をめぐるエピソードを紹介します。
江戸時代前期、二代目の徳川秀忠が将軍だった頃の話です。徳川家光の乳母であった春日局(かすがのつぼね)は、家光を確実に次の将軍にするために、裏で様々な策略を企てていました。
例えば春日局は、兄弟の祖父である徳川家康に指示をし、家光だけに菓子を与えさせることで暗黙のうちに家光が世継ぎであることを匂わせることに成功しました。小島先生曰く「菓子下賜事件」というもので、これによって家光の後継は不動のものになったと言われています。
また、その後世継ぎと認められた家光が住んでいた西の丸の屋敷で、忠長が勝手に池の鴨を捕獲し調理したことによって、忠長の付き人が罰せられたというエピソードや、父の秀忠が死に瀕しているときにも、忠長が鳥や獣を殺すことを楽しんでいたという逸話が紹介されるなど、『日本外史』における家光・忠長兄弟の描かれ方は、忠長が精神的に錯乱していたということを強調しています。
これらの話のすべてが事実かどうかは定かではありませんが、頼山陽の作り話という訳ではなく、秀忠の治世の頃から話題になっていたことのようです。
しかし、こうした「語り」は、家光が最終的に忠長を改易し、切腹による自害を差し迫ったという事実を、正当化するような構成になっています。家光による「弟殺し」を、「忠長はこのような人物であった」という「語り」を挟み込むことによって、実質的に理由づけするような作用が、この「語り」にはあったのです。
また、頼山陽が、この一連の記述において徳川将軍家をどのように呼んでいたのかということに触れておきましょう。
頼山陽は、秀忠のことを当時呼ばれていた「公方」ではなく「将軍」と、家光のことを「世嗣」ではなく「世子」と、春日局のことを「御台所」ではなく「夫人」と、わざわざ呼んでいました。このことは、歴史上の人物をどう呼ぶかということを重視する春秋学の課題を、頼山陽が踏まえていたからでした。
(春秋学とは、魯国の年代記である『春秋』に記されている孔子の意図を解釈する学問ですが、著述の語彙や表現を徹底的に重んじるのが特徴です)
しかし、そのような「語り」は、その後の歴史において意図せざる影響を与えることになったかもしれないのです。
「将軍」という呼称は、そもそも「征夷大将軍」が由来ですよね。東方の蝦夷の討伐のために、天皇から与えられた役職がその始まりでした。
つまり、徳川家が当時呼ばれていなかった「将軍」という名で記されることは、彼らが天皇の臣下として存在していた、ということを頼山陽の読者に示唆することになりかねないのです。
歴史的な展開としては、徳川家は天皇に将軍の職を任されたわけではなく軍事的に日本を征服し、天皇は口出しできなかったというのが実情でした。しかし、「将軍」という語り方を採用することによって、それを内面化した読者が「大政委任論」を無自覚に受け入れてしまうことに寄与したのではないか、と小島先生は考えます。
大政委任論は、あくまでも天皇が将軍家に政治を任せているだけであり、天皇の裁量次第ではそれを取り上げることも可能であるということを、理論という形で説明してしまいます。
このように、頼山陽による意図しない「語り=騙り」が、尊王運動の活性化から、明治維新へと連なる歴史を作っていくことに繋がっていったのではないか、と小島先生は言うのです。
「騙り」は悪か?
では、意図しない結果を生み出してしまう「かたり」は悪いことであり、私たちはそれを可能な限り無くしていくべきなのでしょうか? おそらく、それは逆だと思われます。
「語り」に「騙り」が含まれてしまうことが避けられないのなら、私たちはそのことを自覚した上で「語る」ことが必要とされるのではないでしょうか。
例えばこの文章も、私が「このように受け取ってほしい」とどれだけ意図したとしても、それが「正しく」伝わるとは限りません。時代や場所など、受け取る文脈次第で、いくらでも「騙り」は生まれてしまいます。
しかし、私たちは「かたる」ことを通して、社会のなかで関係を結び、歴史を紡いでいくのです。
そうであるなら、私の「語り」は「騙り」でもあるかもしれないし、「正直」を意図していても「嘘」になってしまうかもしれないという現実を認識しながら、それでも語っていく、という姿勢が重要なのではないでしょうか。
駒場祭公開講座
今回紹介させていただいた講義は、2011年の駒場祭にて開催された公開講座「だます」にて実施されたものです。
東大TVでは過去の公開講座の模様を公開しておりますので、興味のある講義があればぜひご覧ください。
東京大学公開講座:東大TV Youtube再生リスト
<文/中村匡希(東京大学学生サポーター)>
今回紹介した講義:語りと騙り 小島毅先生
●他の講義紹介記事はこちらから読むことができます。