【名探偵とは詩人である】エドガー・アラン・ポーにおける「想像力」とは?
2024/03/13

「想像力」とはなんでしょうか?

いきなりそう問いかけられても、いまいちピンとこないと思います。

「想像力」という言葉は、実にいろいろな場面で使われています。例えば社会の中で、学校の先生が生徒に対し、「他人に対する想像力を持ちなさい」と言っている場面が思い浮かぶでしょう。また、芸術においても「想像力」は欠かせないでしょうし、文学を営む上でも、人間の本性について哲学的に考察する上でも、科学者が世界の真理に思いを馳せる上でも、「想像力」はその根幹に関わってくる力のように思われます。

しかし、そこで使われている「想像力」とは本質的には一体何を意味しているのでしょうか?「想像力」という言葉は、あまりにもたくさんの場面で使われるために、何を指しているのかがはっきりとしません。

平石 貴樹先生 2010年東京大学公開講座「想像力」

こうした「想像力とは何か」という問いに対し、今回の講義を担当した、アメリカ文学専門の平石貴樹先生は、ある一人の人物を紹介します。

それが、エドガー・アラン・ポーです。

ポーは19世紀前半のアメリカで活躍した小説家、詩人ですが、その活動は多岐に及びます。世界初の推理小説と言われる『モルグ街の殺人』を書いたことで知っている方もいるでしょうし、日本の代表的な推理小説家である江戸川乱歩の名前の由来であることでも有名ですね。それだけでなく、世界初の暗号小説とも言われる『黄金虫』を書いたことや、その詩作品によって評価された人物でもあり、科学的洞察に基づいた宇宙論である『ユリイカ』という作品でも知られています。

こうして並べてみると、その活躍はとても幅広く、そのためあまりにとりとめがないものに思われます。しかし、平石先生によると、それは「想像力」という一つの言葉によって集約されるというのです。

それは一体どういうことなのでしょうか?

ロマン主義運動のなかで

ポーが生きていた時代は、18世紀から19世紀にかけて行われていたロマン主義運動の只中でした。近代社会が到来し、「神」から「人間」へと世界観の中心が移行していく中で、人々はキリスト教的な世界観を打破し、どのようにして人間の主体性を確立していくのかという問題に立ち向かっていくこととなりました。

神という絶対的な基盤を失くした状態で、人間としての尊厳や道徳、あるいは世界や宇宙の謎、永遠の美などの超越的なものへと主体的に迫っていくこと。これがロマン主義運動を牽引した人々のモチベーションでした。

そのときに人々が重要視したのが、人間の「想像力」という能力だったのです。

人間には、神のような絶対的なものに依拠しなくても、「想像力」という力があり、想像力によって真理を解き明かすことができるはずだという信頼や信念が人々を駆り立てた、それがロマン主義の時代だったのです。

そうした時代の潮流にあって、ロマン主義の詩人たちは「想像力」を発揮した詩作によって、世界の真理を明らかにしようとしていました。ポーも、そのうちの一人です。

しかし、そうしたロマン主義の詩人たちの試みは、そううまくはいかなかったのです。当時、詩人たちが想像力によって世界を解き明かそうとしている一方で、それと歩調を同じくするようにして、近代科学者たちも科学の基盤を打ち立てようと尽力していたからです。

ここで、本講義のタイトルともなっている3つの能力が登場します。「分析力・洞察力・想像力」です。近代科学者たちは、自然科学が得意とする分析力=論理的な想像力を活用し、科学的手法によって世界や宇宙の神秘を解き明かそうとします。一方で、洞察力=直感的な想像力にしか頼ることのできない詩人たちは、科学が着実な進歩を生み出していく中で、どうしても劣勢に甘んじることとなりました。

ポーは『科学に寄せるソネット(Sonnet—To Science)』の中で、「科学の現実性が詩人の夢想を打ち破る」と嘆いていたようです。 

このように、当時の詩的想像力と科学的想像力は、同じ目標を共有していたにも関わらず批判し合うという、競合関係にあったのです。

しかし、ここで新たな疑問が浮かび上がります。

先ほど述べたような分析力と洞察力は、本当に真っ向から対立するものなのでしょうか。推理小説を書くことのできたポーは、分析的な、論理的な能力も当然持ち合わせているのではないでしょう。では、詩人であり推理小説家であるポーは、分析力、洞察力、そして想像力という3つの力に、どのような視座を生み出したのでしょうか。

ここからは具体的なポーの作品を通じて、ポーの想像力の捉え方を考察していきます。

モルグ街の殺人

1841年、ポーが32歳のときに発表した作品が『モルグ街の殺人』です。『モルグ街の殺人』は世界初の推理小説としても知られ、作中で探偵役として活躍するオーギュスト・デュパンは、続く『マリー・ロジェの謎』『盗まれた手紙』においても登場し、知性と推理力を兼ね備えた名探偵像を人々に植え付けました。今ではお馴染みである、同じキャラクターが別作品で連続して登場する「シリーズ物」というスタイルも、これが世界で初めてだったそうです。

ここでは事件の真相には立ち入りませんが(衝撃の結末は、ぜひ本編を読んでいただきたいです。びっくりすると思います)、密室殺人という類型、そして合理的なロジックに基づいて証拠を解釈し、新事実を見つけ出す探偵のあり方は、その後の推理小説へと引き継がれていくこととなります。

しかし、ここで平石先生が強調するのは、『モルグ街の殺人』は推理小説として書かれたわけではない、ということです。これはどういうことでしょうか?

当然のことながら、『モルグ街の殺人』が発表された当時、推理小説というジャンルは存在しませんでした。ですから、現代の推理小説に慣れ親しんだ我々から見ると、『モルグ街の殺人』は推理小説として洗練されているとはあまり言えず、実際のところ、名探偵デュパンの奇妙な生活模様についてのエピソードに多くのページが割かれています。

では、ポーはなぜこのような作品を作ったのでしょう?

平石先生は、ポーがやりたかったことはデュパンという魅力的な人物をスケッチすることだったのだと言います。

デュパンは、「真に想像力の豊かなものは必ずや分析的であるということがやがて証明されるだろう」という台詞にも現れているように、分析的な想像力を持ち合わせた人物の理想像として描かれています。

ポーは、人間の想像力の性質や可能性を究明する一環として、『モルグ街の殺人』を書いたのです。『モルグ街の殺人』における「殺人事件の解決」は、想像力の基盤として分析的、合理的な思考が欠かせないということを明らかにするために描かれたにすぎないと、平石先生は言うのです。

現代の我々の視点から見ると、分析的思考によって事件の真相に辿り着こうとするデュパンは、まるで科学的な合理性を代表する人物のようにも映りますが、ポーにとってのデュパンは、科学でさえ太刀打ちできないような壮大な謎の領域、隠された真実に到達するための「想像力」の持ち主だったのです。隠された真実とは、宇宙の謎、幻想の美といった深遠な不可思議のことですが、殺人事件とは、それらの世俗的な例でしかなかったのです。

このように、ロジックと詩的想像力の間にある密接な関係性を、ポーはむしろ当然のものとして捉えていたのです。

では次に、そうしたポーの想像力が前面に押し出されている作品である『ユリイカ』を見ていきましょう。

ユリイカ

『ユリイカ』は1848年、ポーの最晩年に書かれた作品です。タイトルは、アルキメデスが金の純度の測り方を思いついたときに叫んだ言葉としても有名な古代ギリシア語の言葉です。

この作品は宇宙の起源とその現状について、極めて論理的に分析・記述したものですが、ポー自身はこれを散文詩だと言いました。一般的な感覚からすると科学論文のようにも思えますが、、これまでの議論を踏まえれば彼がそう呼んだのにも納得するのではないでしょうか。想像力を行使して宇宙の神秘を解き明かすという、ロマン主義の詩人が目標としてきたテーマに大胆に取り組んでいるわけですから、それはポーにとって「詩」以外の何物でもないでしょう。

内容を軽く紹介します。

ポーは宇宙を、神が作り出したある単一の物質から爆発的に放射拡散していったものとして捉え、現在はその拡散が終わり、爆発の反作用によって収束している段階にあるのだと考えました。ニュートンの発見した万有引力の法則は、宇宙が縮んで戻ろうとする力のことであり、収縮の結果、やがて宇宙は元の一つの物質に戻っていくものだとされます。

この爆発と収縮の運動は長い時間をかけて何度も繰り返され、これは神の心臓の鼓動と対応しているのだといいます。心臓の鼓動は人間のものでもあり、宇宙が最終的に一つに収束するとき、人間は薄れゆく意識のなかで自らが神と同一であったことを発見するだろうとポーは主張するのです。

現代の宇宙論を知っている我々からすれば荒唐無稽な理論にも思えますが、詩的想像力によって宇宙の謎を解き明かす、人間と神を同格の存在として扱おうとするなど、当時のロマン主義的な情熱を最大限に発揮するべく作られた大理論であることは、これまでの議論から理解できるかと思います。

『ユリイカ』において、ポーは当時の最先端の宇宙論を取り入れていました。ケプラーやニュートン、ラプラスなど、最新の科学的知見を参照しながら、その上で彼らの議論の及ばない遥か先を見通して、結果的にこのような誤った主張をしたのです。

『ユリイカ』の主張は、現在の科学的知見に基づけば概ね間違ったものだと評価されます。しかし、ある一点からの爆発と拡散によって宇宙が形作られるというモデルは、我々がそう知っているように、ビッグバン理論を思わせるものです。

現代における『ユリイカ』の評価はさまざまに別れているとのことです。しかし、当時明らかだった知見をもとに、想像力を最大限に発揮して一つの理論にまとめあげたというのは、「多大な分析力の賜物であり、20世紀の天文学を予見したとまでは言えないものの、深い思索の結実として十分に評価できるのではないか」と平石先生は評価を下しています。

想像力とは何か?

平石 貴樹先生 2010年東京大学公開講座「想像力」

最後に、話をポーの想像力論に戻したいと思います。

『ユリイカ』の中で書かれていた次の2つの文章は、ポーの想像力観についての重要な示唆を与えています。

科学の最も重要な進歩は、一見したところ直感と思しい飛躍によってなされるのである。

直感は帰納ないし演繹の方法に由来するのだがそのプロセスがはっきりしないために我々の意識化を逃れ、理性をすり抜け、どう表現したらいいかわからない、そのような確信なのである。

ここで、冒頭で話題にした「分析力・洞察力・想像力」の3つの能力の議論に立ち帰ります。冒頭では、分析力すなわち論理的に考える能力と、洞察力すなわち直感的な想像力の2つを対立的に捉え、それが科学者と詩人のそれぞれが別々に拠り所とする能力のように説明しました。

しかし、ポーが行ってきた仕事を振り返ると、どうやらこの2つの能力は、「想像力」という大きな力の関係性の中で、密接に結びついているようなのです。

「モルグ街の殺人」において、ポーは名探偵デュパンを、夜の闇の中で黙考したり、図書館を徘徊したりするなどの、詩人的なメタファーを併せ持つ人物として描きました。ポーの中では、科学者的性格を持つ探偵と詩人は、想像力を用いて隠された真実へと辿り着こうとするという点で、ほとんど同じものだったのです。

想像力とは、洞察力と分析力の2つの能力が合わさって初めてその効果を発揮するのです。

平石先生は「分析力が飛行機の地上滑走だとすると、そのまま空へ向かって離陸していく力が直感だ」という比喩を用いて説明していますが、直感という瞬間的なひらめきと、その土台としての合理的な分析力の、2つの力が手を結ぶことによって、想像力は花開くのです。

詩や小説など、文学作品を創作する営みは、世界のとある側面を発見したいという直感、すなわちインスピレーションから始まって、それを分析力によって緻密に組み上げていく想像的な営みなのだと、平石先生は結論づけました。

ここで、平石先生は文学に関してしか説明していませんでしたが、科学の側にも同様のことが言えるのではないかと筆者は思います。

例えば、世界的数学者である岡潔さんが数学を情緒的な営みだと考えたように、文学的想像力と科学的想像力は決して2つに分けられるようなものではないのでしょう。どちらの学問においても、世界の真理を解き明かすという目的を共有しています。であれば、その営みは、かつてポーが考えたような論理と直感の密接な関係としての想像力を巧みに用いることによって、果たされるのではないでしょうか。

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<文/中村匡希(東京大学学生サポーター)>